カツン、とヒールを鳴らして少し早めに歩く。はやく、はやく彼に会いたい。たまにしか会えないから、僅かな時間も惜しい。アスファルトで舗装されたありきたりの道が、彼へ続いていると思うだけで、特別な道に思える。
普段はストレートな髪を巻いて、メイクだって時間をかけた。お洋服だって何日も前から考えて、丁寧にアイロンを施した。全部彼のため。少しでも可愛いって思ってもらいたいから。彼の世界で輝く人たちに負けたくないから。
住宅街を少し裏に進んだところにあるマンション。逸る気持ちを抑えて、ちょっとだけまわりに気を配る。ゆっくりと彼の部屋番を入力して、オートロックを解除してもらうべくインターホンを繋ぐ。
「…ゆかり」
自分の名前を囁くと、マイク越しに彼が笑ったような呼吸音が聞こえた。自動ドアをくぐってエレベーターに乗り込む。きっと、すごく高いマンションなんだろうなあなんて、頭の片隅に自分のアパートを思い浮かべて苦笑する。あんなに急いていたのに、どこか冷静なのだ。
高級マンションに似合わない、チン、という独特な安い音が、彼の住む階への到着を告げた。エレベーターを降りれば、角を曲がったところが彼の部屋だ。
チャイムを鳴らして、ドアが開くのを待つ。カチャリ、とドアが開いたと思えば、次の瞬間には手首を引かれて玄関で彼の腕の中にいた。声を発する暇も与えられないくらいの、ほんの一瞬のことで。気づけばドアに押し付けられて、頭と腰は彼の手に抱かれて身動きがとれない。
「涼太くん…」
「ゆかり…」
自然と唇が重なる。柔らかいキス。啄むキス。何度か繰り返すと、涼太くんの舌がわたしの口内にスルリと入り込んできて、くちゅ、と音をたてながら愛を貪る。後ろ手にカチっと鍵を閉める音がしたような気がした。
本人に了解をもらった上でキッチンに立つ。夕飯を待っててもらう間のコーヒーを淹れながら、そういえば雑誌見たよ、と言うとキラキラした目で感想を聞かれた。
「かっこよかったよ。やっぱりファッション雑誌だと、いつもと違う感じの涼太くんがたくさん見れていいなあ」
「俺的には今回結構いい表情できてたと思ってたから、褒められると嬉しいっス!」
「でも涼太くん、インタビューでバスケの時テンション高すぎ!本当に大好きなんだなって誌面から伝わったもん!」
「そりゃね。高校卒業してからは軽くしかやれてないけど、俺の青春全てっスから!あ、ゆかりも勿論、俺の全てだけど!」
「っもーー、なんでサラッとそういうこと言えるかなぁー」
へへ、と笑う彼の脇にコーヒーカップを置く。良い香り、と微笑む彼の横顔が綺麗すぎて、思わず息を呑む。涼太くんが不思議そうに見てくるけど、なんだかそれが悔しくって、涼太くんもちょっとくらい照れてくれたらいいのに、なんて。
「でもわたしはね、どんな涼太くんより、わたしの前にいる涼太くんが好きよ」
あんまり可愛いことは、わたしが照れちゃって言えないから少しつっけんどんだけど。それでも意外と効果はあったみいで、珍しく彼の頬が色づく。
「ゆかりだって、恥ずかしいことサラッと言うじゃないっスか…」
「仕返し!…だけど、本当だよ?」
そう言えばどちらともなくキスをする。さっきみたいないやらしいものじゃなくて、愛を確かめるような、唇を合わせるだけのもの。
重なった部分から愛しさが溢れるような錯覚に陥る。たまらなく、愛しい。
本当は少し寂しいのだ。高校を卒業して、芸能活動を本格化させてから、涼太くんの人気は一層高まった。注目度が高まるのに比例して、私たちは会いづらくなる。人気商売だし、涼太くんのファンは若い女の子が中心だから分かってはいるんだけど。聞き分けの良い彼女になりきれないでいる。わがままは言わないけど、涼太くんもそれを分かってか、たまに会える今日みたいな日は、めいっぱい甘やかしてくれる。
「ごめんね、ゆかり」
「どうしてそんなこと言うの?わたしは幸せだよ、涼太くん」
「そう?でも俺は、ゆかりをもっと幸せにしてあげたいっス」
「そんな、これ以上なんてーー」
「だから!」
これ以上の幸せなんて、怖すぎて望めないよ。そう、言いたかったのに。声を荒げた涼太くんの必死な顔と、小さく深呼吸をする姿に、言葉を続けることができなかった。
考え込むように下にそらしていた視線を上げた涼太くんの顔は、思わず涙が出そうになるくらい優しく微笑んでいて。
「ゆかり、幸せにする。もっともっと。すぐに、とは言えないけど。許可ももらったし。」
「涼太くん…?」
「結婚しよう」
言葉は紡げなかった。でも、そんなものいらなくて。ただただ涙が溢れてとまらない。ボロボロと泣くわたしに一瞬目を丸く見開いた涼太くんは、嬉しそうに笑った。さっきの優しい微笑みとは違う、いつもの、強いて例えるなら花が咲いたような、そんなわたしの大好きな笑顔。
こんな幸福、あっていいんだろうか。わたしはこれからも、だいすきな彼の大好きな笑顔を見続けられるのだ。
喧嘩だってするだろう。もしかしたら辛いこともあるかもしれない。けど今なら、2人ならずっと、乗り越えていける気がする。
愛しい
そんな気持ちを教えてくれたあたなの側にいられる、しあわせ
幸福の鐘とメリーポピー
0913
1027(up) 千夏