★
1秒後、
最悪だ。
寮の階段を駆け上がりながら、俺は顔をしかめていた。
腕時計を見る。既に11時を回っていた。
「くそ…っ」
今日の収録が終わったのは大体八時前。本当なら、遅くとも九時までにはここに着く予定だった。
だけど突然の事故で遠回りを余儀なくされ、その道もかなりの渋滞にみまわれるというダブルパンチをくらってしまったのだ。
あいつは、まだ待っていてくれているだろうか。
「名前…」
コンクリートの階段で、ひたすら上を目指す。名前の部屋がある階へ。
呼吸も荒く、俺は彼女の部屋の前に辿り着いた。
寝てる可能性も、ある。
当然だ。もうほとんど深夜帯なのだから。
合い鍵は渡されているので、それを使って静かに錠を外す。俺の部屋の鍵も、当然渡してある。
それでも、俺たちは恋人という関係ではないのだ。
いや、俺は名前が好きだし、多分あいつもそうなんだろうと思うんだけど、学園時代からずっと一緒の俺たちは、関係にあえて名を付けることはしなかったのだ。
――多分その理由は、俺がアイドルだから。まあその辺りは確認せずとも共通の認識なのだろう。
恋人になったからといって、俺たちの仲の良さは変わらないし。
しかし扉を開けた瞬間、そんな小理屈全てを覆すような光景が目に入った。
それは一瞬見とれるほどに美しく。
同時に、俺の胸をかつてないほどに締め付けた。
名前は泣いていた。1ピースだけ皿に載せたケーキをのぞき込むようにして、嗚咽をあげるでもなく泣きじゃくるでもなく、ただ涙を流していた。
ぽたぽたと、顎を伝う滴がケーキへふりかかる。
「――名前!」
靴を脱ぐのもそこそこに、考えたことは、ただ彼女の悲しみをどうにかすることだけ。
ソファに浅く腰掛けた名前は緩慢な動きでこちらを向く。
「――しょ、…く…」
苦しそうに顔をゆがめた彼女の頬に手をかけ、親指を瞳にはわせて涙を拭う。
ぎしり、ソファが軋んだ。
「…………――――」
そしてそのままの勢いで、俺は名前の唇を塞いだ。
一連の動作はあまりにも自然だった。
何も考えはしなかった。ただそうすることが当然だと知っていたかのように、俺はそうすべきなのだとわかっていたかのように、強く、強く口付けた。
他の肌質とは明らかに感触を異にするその柔らかさ。
ああ、これがキスというものか。
たった一カ所の触れあいが、こんなにも心をざわつかせてしまう。
「……っは……」
「……………」
息が苦しくなって、長い口付けから互いの唇を解放する。酸素が足りなくて頭がくらくらする中、いつの間にか名前より大きくなっていた体全体でぎゅうと優しく抱きしめる。
とん、とん。軽く背中を叩いてやると、腕の中の名前がおかしな息を吸い上げた。
ひくっ、ひっく、しゃっくりのような呼吸が止まらない名前。
「泣けよ、名前」
「っ、で、も――」
「あのな。おまえは本来怒っていい立場なんだよ。変な遠慮するくらいなら、好きなだけ泣いて、罵れよな」
「――…っ、翔くん…っ!」
完全に涙と嗚咽にまみれた声をあげると、名前は俺の背中にきつく腕を回して、声にならない叫び声で泣き続けた。
かち、こち、かち、こち。
時計の秒針は、俺たちの都合に構わず勝手に時を刻み続ける。
泣きじゃくる声も小さくなり、震えていた背中が落ち着きだしたのは、もう明日までに15分といった時点だった。
ああくそ、時間がない。
伝えるべき言葉は、せめて顔を見て言おうと思ったのだが、体を引き離そうとすると、名前がいやいやと首を振って腕に力を入れてくる。
…まあ、いいか。
「名前」
名を呼び、髪を梳く。さらりとした黒髪は、俺の大好きな彼女の一部。
ああ、愛しき哉。
「誕生日、おめでとう」
「…あり、がと」
「それから!」
秒針の音と、互いの鼓動が、重なった。
俺は目を閉じて、深呼吸をする。
「好き、だ」
初めて口に出したその言葉は、彼女にちゃんと届いただろうか?
その答えを知るのは、名前が自分からそっと体を離して、赤くなった目を俺に合わせたとき。
1秒後、
俺たちの関係は、変わっているはずだ。
そしてもう一度、日が変わる前に、口付けを送ろうと再び名前を抱き寄せた。
――――――――――――
はい、誕生日にかこつけた、書いてみたかったネタでした。
何故か二分割!わお!
ハロウィン・これと終わらせたので、これからは通常運転に戻ります。
アンケリクがどっさりあるんですよね。頑張ります。
2011.11.01
bkm
▲top