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涙色ラプソティ
机の上に置いてあった携帯から、バッハの軽快なリズムが流れた。この着メロを設定しているのは、ひとり。他の誰でもないあの人。
わたしはしばらくそのメロディーを楽しんだ後、パカリと携帯を開き、通話ボタンを押した。
途切れるクラシックの代わりに、わたしは声を出す。
「はい、もしもし」
それに答えるように聞こえる彼の声。
「よ。久しぶりだな、編子」
今は東京でアイドルデビューして滅多に会えなくなっているわたしの幼なじみ、翔くんだ。
電話の向こうでは、かすかに音楽が流れている。彼の曲は全てチェックしているにも関わらず聞き覚えがないということは、新曲なのだろうか。
「うん、久しぶり。元気?」
「テレビ見てねーのか?俺様はいつでも元気だぜ」
わたしはまだ高校生だというのに、明るく笑う彼は立派な芸能人。無邪気に仲のよかった昔を思うと、懐かしさがこみ上げてくる。それと同時に、甘酸っぱい気持ちも膨らんでゆく。
ねえ、知ってる?
今じゃ手の届かない存在の君を、わたしはずっと好きでいるんだよ。
笑顔を含んだ声のまま、向こうでの話を始める翔くん。この前オリコン一位を取ったのは学園時代の友達だとか、大御所芸人さんに思いっきり突っ込みを入れてしまったとか。
本当に楽しそうに話すものだから、生活が充実していることが伺い知れる。笑い声や相槌を入れながら、わたしはベッドの上で膝を抱えた。
「だってさ、学園じゃあまともな奴が少なかったから、俺が突っ込み要員だったんだ」
「へぇ」
「まあ、今思えば懐かしいことだけどな。すげー楽しかった」
ずきん、と胸が痛みを訴える。ずきん、ずきん。ああ、苦しい。
翔くんが、どんどん遠くなる。置いて行かれるのをどうしようもなく実感してしまう。
「そうなんだー。またゆっくり聞かせてね」
悟られないようにいつものように。そう気をつけてわたしは返事をする。
「…編子、どうした?」
速攻で見抜かれてしまったようだ。ぎゅ、と口元に笑みを作り、必死で明るい声を出す。
「何がよ?平気だって。それより翔くんは年末までに帰ってくる?」
「年末か…いや、今年は年末音楽番組の話が来てるから無理だ。ほら、学園同期で組んだグループがあるだろ?」
「ああ、大ヒットしてたね。うちのクラスにもファンばっかりだよ」
「マジか、すげえ嬉しい」
『翔ちゃん』の大ファンもいっぱいいるよ、と教えれば、彼はどんな反応を示すだろうか。
「…そっか。じゃあお正月も無理かな?」
「ああ、多分」
「ふうん…」
前回翔くんに会ったのは、いつだったかな。学園時代の夏休みか。もちろんテレビで見ているから彼の成長は知っている。
そうだ。わたしは彼を自由に見ることができるんだ。
だから、寂しがる必要は無い。
握りしめた手のひらに爪が突き刺さる。
「んじゃ、大晦日はお母さんと薫とおばさんと、みんなでテレビ見るね」
「編子」
名前を呼ばれた理由は自分でも分かっていた。自覚できるほど、わたしの声は震えて、涙声で。
「編子!」
「じゃあね翔くん。仕事頑張って!」
翔くんの呼びかけを完全に無視して、わたしは叫ぶようにして通話を切った。
あと少しでも切断が遅れていれば、わたしは大声で泣くという醜態を晒していただろう。
手の中の携帯が、再びバッハを奏で始めた。
声を聞きたいけど聞きたくない。
そんな矛盾に耐えきれなくなって、わたしは電源を切った。
涙色ラプソティ
それから一切連絡が無いまま、一ヶ月が過ぎようとしていた。
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2011.09.04
bkm
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