洗面台にポツリと置かれたそれは随分と所在なさげに見えた。手に取ってじっくりと眺めてみる。とても軽いけれど、金具や素材はしっかりしていてちょっとぶつけたくらいじゃ壊れそうにない。軽薄な印象を与えるのとは真逆で、良い所で作った高価な品なのだろうと推測する。少し好奇心が湧いてきたのでこっそりと自分の顔に掛けてみた。鏡を見ると見事に似合わない。当たり前だ。これはきっと、彼のためだけに作られた一点物だろうから。
「何してんだアビス」
シャワールームの扉を開けて、タオル一枚のワースが現れた。癖のある黒髪を濡らしたままの彼が怪訝そうにこちらを見る。当然その瞳はむき出しだ。
「サングラスなら、手軽に目が隠せるかもしれないと思いまして……」
「いや無理だろ。余裕で見えてるぞ」
ワースが自身の左目を指差して言う。私はその言葉に苦笑しながらサングラスを外した。同じ部屋で暮らすようになってそれなりに経つというのに、彼が指差す先の鈍色は今もなお新鮮に感じる。ワースの裸眼というちょっとしたレア物を本当はもう少し眺めていたかったけれど、友人とはいえ半裸の人間と一緒にいることを望むのは最早不審者だ。私はサングラスを元あった位置に戻すと、そそくさと洗面所を後にした。
ワース・マドル。彼は私がイーストン高等部に入学した時には既に校内の有名人だった。理由はもちろん、彼が神覚者オーター・マドルの弟だからだ。高名な貴族出身で兄と同じく勤勉かつ成績優秀、おまけに容姿端麗と、端から見れば持つべきものは全て持っているように見えたけれど、彼には全くといっていいほど常に余裕がなかった。余裕の無さからくる高圧的な態度、そしてそれを後押しするように威圧感を増長させるサングラスは、ワースから人を遠ざけるには充分な機能を果たしていた。
「うわっ、やめろやめろ! んなモン捨ててくれ!」
「人が読んでいる新聞になんてケチのつけ方するんですか」
「普段こんな時間に共有スペースで新聞読んでるとこ見たことないんだからワザとやってんだってバレバレなんだよ!」
「おや、失敬」
髪を乾かし終えたワースは部屋に入って来るなり露骨に顔をしかめた。サングラス越しでもわかる視線は、当然、今日の新聞の一面を飾った砂の神杖のニュースに向けられている。
ワースの指摘通り、確信犯としての実行である。新聞の一面に大きく載せられた写真の兄と、目の前で私に怒っている実物の弟を見比べて、「よく似てるなぁ」と外野の一般人としての感想を抱いた。一目見ただけで、彼らが血縁であることに疑問を抱く人は一人もいないだろう。神覚者である以上メディアへの露出は避けられない。私は多分ワースに会うより先にお兄さんの顔を覚えたし、そういえば今日の新聞に載ってたなと事も無げに思い出せる程度にはその頻度も多い。
「お兄さんのこと、嫌いなんですよね?」
「当たり前だろ」
じゃあどうして丸縁のサングラスなんて掛けてるんです? 藪蛇をつつきたい気持ちに駆られたところをぐっと堪える。笑って誤魔化した私にワースから不審の視線が送られるけれど、結局追及を受けることはなかった。
同じものを身に着けたい、それは一般論でいえば憧れが引き起こす行為なのではないだろうか。ワースのトレードマークの役割を果たす円形は、彼の兄にとっても同じ役割を担っているはずだ。彼の「嫌い」という言葉に嘘はない、と思う。だけどそれだけが全てではないとも思う。ワースが私の家庭環境に口出しする権利がないように、私にもワースの環境に口出しをする権利はない。だから端から一方的に不器用な兄弟を眺めている。
ワースの望み通り、新聞紙を筒状に丸めてゴミ箱に突き刺した。筒の空洞は、ちょうどサングラスと同じような形と暗さをしている。
∴相似正円