やけに昇降口がうるさい日だった。理由は単純、午後になって急に雨が降り出したからだ。階段脇の廊下に背中を預け、暇潰しのためのゲームをポチポチしてる間にも、やれ傘を持ってくるのを忘れただの濡れるのが嫌だだのの愚痴は留まることを知らずにおれの耳に流れ込んでくる。取り留めのないそれらに心の中で相槌を打っていると、LINEの通知と共に簡素な文面が送られてきたのでゲームを止めて辺りを見渡す。誰の声かもろくに判別できない中で人の波に抗ったり流されたり、数十秒の格闘の末、どうにかお目当ての待ち人達と合流することが出来た。
「お待たせしました……」
「辻ちゃんお疲れー。ひゃみちゃんも付き添いご苦労さま」
ビニール傘を握りしめて虚ろな顔をする辻ちゃんに思わず笑ってしまいそうになったところで、ひゃみちゃんに牽制の視線を送られる。二宮隊のグループLINEに「傘を忘れたので美化委員に借りに行きます」と連絡が来た直後に「私も行くから教室で待ってて」と返した彼女の対応は実に慧眼だった。
「ひゃみさんは折りたたみ傘あるのに付き合わせちゃってごめん……」
「前に女の子しか居なくてヘルプ出されたのを覚えてただけだよ。犬飼先輩の方は傘大丈夫ですか?」
「おれも折りたたみ傘あるから。ほら」
言いながら鞄の中から紺色の折りたたみ傘を取り出す。数年前に誕生日プレゼントという名目で姉から雑に押し付けられたそれは思いの外活躍機会が多い。
叩き付けるような雨音はこの雨が一時的であることを期待させた。もしかしたら一時間もすればやむのかもしれないけれど、それは二宮さんを本部で一人待たせるということだ。ゲリラ豪雨がやむことを期待して立ち往生している生徒達の隙間を縫って外に出る。早速ズボンの裾が濡れるのが目に入ってげんなりした。相も変わらず、雨なんてひとつも良いことがない。
「ひゃあっ!」
「ひゃみさん大丈夫?」
「水溜まり踏んだ……最悪……」
「あはは、どんまい。シャワー借りる時間あるかなぁ」
本部への道を進むにつれ口数は少なくなる。警戒区域に入った時には、雨音をBGMに三人黙々と歩くだけになっていた。放棄された民家を訳もなくぼーっと眺めていると、どこか懐かしい気持ちにさせられる。軒下に見知った女の幻覚が一瞬映って消えた。
雨音が一日中うるさい日だった。
「……何してんの?」
呆れを隠さずに声色に乗せて、おれは目の前の女に問い掛けた。比較的被害が少ない区画とはいえ、警戒区域という名目で放棄されて数年が経った家屋は蜘蛛の巣やら雑草やらにたかられて惨めな様相を呈している。そんな家の軒下で濡れた制服のままほうけた姿を晒しているのは周囲の景色相応の貧相さに見えた。
「雨宿りしてる」
「いや、それは見れば分かるし。てか傘は? 今日朝から雨降ってたじゃん」
「えーっと、それは……」
間髪入れずに疑問を返せば鳩原は何やらモゴモゴと言い淀む。後ろめたいことでもあるのかと疑心暗鬼なおれに気付いたのか気付いてないのか、何かに吹っ切れたようにバカでかい溜め息をつくと、ガックリと肩を落としたまま「パクられたみたい」と告げた。
「あー……、そりゃ災難だったね」
朝は普通に傘をさしてきた来たこと、その傘は半年ほど前にホームセンターで買ったばかりのものであること、もしかしたらと思って他学年の傘立ても探していたら不審な目で見られたこと、エトセトラ。つらつらと語られる事情を聞いて流石に同情する。これみよがしに漂う諦めオーラは最早慰めの言葉は意味がないことを示していた。
「そっちって貸し出し傘とかないの?」
「あった気がする。けど、学校出たとき小雨だったからいけるかなと思って」
「で、目論見外れてびしょ濡れになったと」
「面目ない……」
見慣れたへらへら笑いもいつもの三割減で元気がない。こうなったら出来ることは一つだ。やれやれとわざとらしく口に出して、おれは自らの傘を突き出した。
「しょうがないなぁ」
「え? 何?」
「入りなよ。おれの気が変わらないうちに」
おれだってそんな薄情な人間じゃない。雨に濡れて困っている人がいれば傘を半分分けてやるくらいはする。助け合いの精神ってやつだ。だと言うのに、なんだ、その鳩が豆鉄砲でもくらったような顔は。
鳩原は辺りをキョロキョロと見渡してから、おずおずと挙動不審気味におれの傘に入ってきた。おれ達以外に人なんていないことぐらい分かっているだろうに相変わらすの用心っぷりにおかしくなって笑っていたら珍しく非難の視線を向けられる。馬鹿正直に「濡れネズミみたいだ」と口走っていたら余計な反感を買っているところだった。危ない危ない。
「ありがとう」
「貸し一つだからね」
もくもくと無言で歩くなんてことはせず、ダラダラと任務だとか訓練だとか、課題だとかテストだとか、他愛のない会話が続く。会話と言っても口を動かしているのはもっぱらおれの方で鳩原は相槌を打つばかりだったけど。そうしているうちにボーダー本部に着いて、おれの傘としての役目は終わる。傘からはみ出た右肩の冷たさをやけに鮮明に覚えていた。
結局雨は本部にたどり着く前にやむことはなかった。駆け込むように屋根の下に潜り込むが、傘のみならず髪やら服やらから垂れた水滴がまだ乾いていた軒下に染みを作る。特に折りたたみ傘のおれとひゃみさんは濡れネズミといって差し支えないずぶ濡れっぷりだった。
「うへぇ、気持ち悪っ。おれも辻ちゃんみたく大きい傘借りるべきだったかなぁ」
……雨が降ると嫌でも思い出す顔がある。だからその顔の中でも幾分マシなやつを思い出すようにしていた。右肩のみならず両肩がぐちょぐちょに湿っているのを感じながら、傘を無くしてずぶ濡れになったマヌケ面に一年越しの共感を得るなど笑い話だけども。
「寒い……」
「早く着替えてトリオン体になった方がいいよ」
「そうだね……」
真横で交わされる後輩たちの会話には痛烈な既視感があった。ほとんど同じようなやり取りを一年ほど前にした覚えがある。ちょうど思い出していた記憶が、今現在と繋がっていく。
「二宮さん待たせるのも悪いしさっさと中入ろう」
気付けばその時と全く同じことを口にしていた。素直に頷く後輩達の行動もあの時の鳩原と何ら変わらない。変わったのは、仲間が一人いなくなったことと、あの時よりおれが濡れていること。変な感傷に浸っていたせいか寒気に耐えられなくなった体からくしゃみが一つ出た。『風邪ひくなよ』と声を掛ける相手はもういない。
∴相席傘