「晴信、口付けてみてもいいですか?」
 瞬間、晴信の眉間に皺が寄った。カルデア内の自身に与えられた部屋にいきなり押し入ってきたと思ったらこれである。押し入り自体は残念なことに日常茶飯事なので驚きもしないが、景虎の野郎がまた素っ頓狂なことを言い出したなと晴信は頭を抱えた。右手に酒瓶が握られているのが見えたのでもしかすると酔っぱらっているのかもしれない。戦しましょう! じゃないだけマシかと考えた彼の思考回路がすっかり毒されたそれであることを指摘する者は残念ながらいなかった。
「それじゃあちゅーしますね!」
 面倒なことに巻き込まれたと諦めを湛え始めた晴信を他所に嵐のごとき景虎は返事も聞かぬまま彼の口にかじりつく。今更女にキスされたくらいでたじろぐような生前は送っていない。当てられた柔らかな唇に、神でも化け物でもない、人間の唇だなと、どこか他人事のように分析する余裕すらあった。酒の匂いもしないのでどうやら酔っているわけでもないらしい。尚更何故? と疑問符が頭に浮かぶが、同時にそれを己で考えるのは無意味な行為であるとよく知っている彼は思考を早々に放棄した。
 最早諦めの境地にいる晴信が何もしないことをいいことに景虎は己の舌を彼の歯列の隙間にねじ込む。閉じられた場所を無理矢理にこじ開けたせいで血が流れるが、彼女はそんなちゃちなことを気にする玉ではない。もっと、奥へ。導かれるようにして景虎の舌が晴信の上顎を舐めた時、頭にげんこつが振り下ろされ気付けば舌は空気を撫でていた。
「調子に乗るな」
 流石に限界が来た晴信が短く吐き捨てると、景虎は舌を出したままあっかんべーの要領で応戦する。ムカつく面をぶん殴りたい衝動に駆られるが、今殴ったが最後、それは戦の合図。ただ景虎を喜ばせるだけだと己を律し拳を握るに留めた。
「人とはどんな味がするんだろうかと思いまして」
 晴信が黙っていると世間話のつもりか景虎が話しかけてくる。それは先ほど自分が思考放棄したことの答え合わせでもあるようだった。
「人って結構苦いんですね!」
 答えは得たとばかりに満面の笑みで胸を張る。景虎にとって人間とは基本的に晴信の形をしている。人を知りたいと願ったとき、それはつまり晴信を知ることと同義であった。甘いのかしょっぱいのか。期待や好奇心というよりは己は人を知るべきであるという一種の義務感によって動かされた行動の果てで、舌先に伝わるほろ苦さのために彼女にとっての人間は苦い生き物となる。
 そんな景虎を見て、晴信は呆れたように首を振った。
「その味とやらが俺の口の中を指すならそれは煙草の味だ」
「じゃあ煙草じゃない晴信を食べさせてくださいよ」
「やめろ。おまえなら本当に俺の臓物を食いかねん」
 呆れ顔のまま猫でも追い返すようにどっかいけと手を振る晴信。もちろん帰りたくない景虎はにゃあにゃあ喚きながら彼にじゃれついては押し返されるのを繰り返した。幾ばくかの間いつもの攻防が繰り広げられ、やや疲れを感じ始めた頃、ようやく彼の体から離れた景虎は今度は部屋の中央にどかりと座り込み勝手に酒を飲み始めた。……もうどうにでもなれ。再度の諦観が晴信を覆う。
「そういえばおまえは普通の味だったな」
 ふと思い出したように晴信が呟いた。それはなんてことはない感想だったが、彼女にしてみれば得難い評価である。どうにも堪らなくなってしまって、彼女はぐいと酒を一杯あおると問答無用で晴信に飛びつき押し倒し口を付け舌を突き出した。その高揚感が酒によるものではないことに彼女が気付くことはない。度数の高いアルコールの辛味に、染みついたニコチンの苦味、それに切れたままの舌先から流れる鉄の味が晴信の口内でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「これが私の味ですよ。どうです? しっかり味わった感想は?」
 ひとしきり彼の口内を蹂躙して満足したらしい景虎はゆっくりと己の舌を引き抜くと息を荒げたまま問いかけた。晴信を真っ直ぐに見つめる爛々と輝く瞳は、正しく人としての欲を湛えている。対して彼女の全ての欲を受け止める宿命にある晴信の、問いかけに対する答えはとっくのとうに決まっていた。
「糞マズい」


∴人の味


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