祈りは無意味だと知っている。
もしも全ての願いが叶うのだとすれば、世界が滅んで欲しいというどこかの誰がの願いで地球は爆散しているだろう。オレが生きているということは自暴自棄になった無敵マンの祈りは決して神に届かなかったということだ。
「ハァ……、ハァ……、ッ! クソがッ!!」
自暴自棄。その誘惑に駆られそうな今なら地球を滅ぼしたい気持ちも少しはわかる。
「残念だよ、シャカールさん。キミにボクの好敵手は荷が重かったかい?」
数多の歓声と、そこに紛れるように吐き出された罵声。種々雑多な声が響く競バ場でヤツはまるで己が神であるかのように振る舞う。類稀なる賞賛と、何を考えてるのかわからない糞野郎の罵声を浴びては、それが当然のことだというように手を振り返した。オレは疲労と、それ以外の何かによって呼吸が乱れたまま、ヤツの姿を眺めるしか出来なかった。祈りは無意味だ。オレは覇王に完膚なきまでに叩き潰された。
「ドトウのお見舞いに来たよ!」
「帰れ」
無遠慮かつ大袈裟にドアが開かれ、ホコリが舞った室内に響いたやはり大仰な声に苛立ちのまま返答を返す。自分が散らしたホコリを思いきり吸い込んだらしい無礼な来客は、ゴホゴホと派手に咳き込みしばらく胸を抑えた後涙目のままオレを含めた周囲を見渡した。
「おや、ドトウの姿はどこに?」
「寮長の部屋に一時的に預かってもらってる。病人をこんな部屋に居させるわけねェだろ」
言いながら床に散った紙片の一つを拾い上げて中身を一瞥した後ゴミ袋にブチ込んだ。オレの数学の満点の解答用紙だった。テストの点数が良いことで貰える賛辞はオレを満たさない。よって、それはゴミ袋に入れて構わない価値の無い物だ。
今、この部屋は潔癖症のヤツが見たら気絶してしまうような様相を呈している。高熱を出したドトウが、しかしそれを理由に布団に篭もりっぱなしを申し訳ないと思い、部屋の掃除をしようとした結果がこの有様である。そう勝手に推測している。オレが授業終わりにドトウの様子を伺いに部屋に戻った時、ドトウはハエ叩きを持って散らかった床で失神していた。それから急いで寮長に相談した結果一時的な隔離措置が適用された。それが少し前の話。寮長と話を付けたオレが部屋の片付けをせねばと腰を上げた瞬間闖入者が現れた。これが今現在の話である。
「帰らねェならてめェも手伝え。確かドトウと同じクラスだったろ。ドトウの物の取捨選択はてめェがやれ」
言いながらゴミ袋を差し出せばオペラオーは何故かNOとでも言うように両手のひらを突き出した。「ア゛ァ?」苛立ちのメーターが上がり、オレよりも低い位置にある頭を睨め付けながら脅しの声が漏れる。並のヤツであればビビってオレの前から逃げ出すところだが、生憎目の前にいるのは自らを『覇王』と吹聴し、それに有り余る実績を持つバケモノだった。
「何も捨てる物などないのだからゴミ袋は不要だよ」
自信満々に、それが当然であるかのように言い放つ。そして足元に落ちているプリントを拾い上げると、活字の印刷された表面ではなく乱雑に数式が散見している裏面を愛おし気に見つめた。
「これ、シャカールさんがドトウに数学を教えてあげた時のものだろう?」
「……それがどうした。途中式とひっ算のメモ書きなンて見返すことないンだからさっさと捨てろ」
「薄情なことを言わないでおくれよ」
ヤツはプリントをドトウの机に置くとオレに対して真っ直ぐに向き直る。
「シャカールさんは凄い人だといつも聞いているよ。頭が良くて何でも教えてくれると」
「……やめろ」
「困っていることがあったらいつだって助けてくれる。迷惑をかけてしまっても自分を邪険にしない。そして何より、夢に向かって試行錯誤しながら頑張っている姿が好きだ、と」
「やめろっつってンだろっ!!」
散らかった部屋に再度ホコリが舞う。吸い込んだホコリが喉にへばりつく不快感が、オレの苛立ちを加速させた。
うるさい。お前に何がわかる。お前に叩き潰されて、最弱の名を背負う羽目になって、周囲もまとめて白い目で見られるようになったオレに向かって、よりにもよってお前が称賛の言葉を口にするな。王の視座から有象無象を眺めるのは楽しいか? 褒め言葉を口にするのは神の慈悲のつもりか? それを素直に受け取れるほど、オレはできた人間ではない。
「やめないよ」
凛とした声だ。オレの八つ当たりを真正面から受け止めて、ヤツは淀みなく言葉を紡ぐ。
「ボクが知る君の素晴らしいところは、ボクが直接見たものよりドトウからの伝聞によるものが多い。だけどドトウの言葉を聞いて素晴らしいと思ったのはボク自身だし、ドトウに凄いと思わせたのは君自身の行動だ。神頼みでもボク頼みでもないそれに称賛を送ることに何の躊躇いの必要があるというんだい?」
人は、願いが叶わなかったときに言い訳を考える。できれば自分のせいではないように。例えば、運命だとか、神だとか、そういった人智を超えたものに責任を押し付ける。弱い証だ。
これは諦めなのだろうか。いや、根負けというのが正しいのか。オレにはヤツの気持ちはわからない。ヤツが覇王になった時から、オレが凋落の象徴となった時から、それは一生わからないままだろう。
だけど、オレにお前の気持ちはわからないけれど、お前の称賛は受け入れよう。理解なんて微塵も出来ないが、お前は人間だ。それを認めよう。お前を、倒すために。
「……紙の類はドトウの机の上に固めろ。服はドトウのベットの上だ。大きいものは窓際に寄せろ。それ以外はオレに寄越せ」
「任せてくれたまえ! オペラを奏でながら優雅にこなしてみせよう!」
「掃除中は静かにしろ」
クソみたいな足場で踊りだそうとしたヤツの頭を軽く小突く。不満気に口を尖らせつつ一応は静かになったところを見ながら、年相応な部分もあるんだなと安心を覚えた。
∴Buona fortuna!