※キャラクターによる殺人描写があります。


「……え?」
 文字通り目を疑った。目の前に広がるのは凄惨としか言い様のない光景。けれどこれ自体は都内有数の不良高校である風雲児に通う僕にとってそれほど珍しいものではない。倒れ伏す不良達の中央で矢後さんがただ一人ぽつんと立っているのももう見慣れたものだ。……一ついつもと違うのは、矢後さんが首を掴んでいる赤い髪の名も知らぬ誰かが、明らかに息をしていないこと。
「っ!?……ガハッ、ゲホッ」
 眼前の風景がかき消える。目の前では矢後さんがいつものように眠りこけていて、周囲にはチンピラどころか僕以外の人影はどこにも存在しなかった。
(そうだ、僕はいつものように屋上で寝てる矢後さんを起こそうとして。でも、未来視なんて使おうとした覚えはないはずなのに……)
 不可解な出来事、嫌な予感。それらに頭を抱えていたら、眠っていたはずの矢後さんはのそりと上体を起こした。
「うるっせぇよ久森、風邪でも引いたか?」
「引いてませんよ、矢後さんじゃあるまいし。……って痛ッ!?」
 僕の物言いが気に食わなかったらしく脛を蹴られる。でも、いつも通りの矢後さんの調子に安心した。アレは未来視なんかじゃなくて悪い夢だったのだろう。そう自分を納得させて、二度寝の体勢に入った矢後さんをパトロールに連れていくために頬を叩く。大丈夫。なんてことはない。いつも通りの光景だ。

 ……そのはずだった。
 パトロール中、他校の不良達に絡まれた。風雲児の学ランは悪い意味でとても有名だ。僕はまたかと思いつつその場を矢後さんに任せようとした、のだけれど。
「テメェが風雲児のヤゴか?この間はウチの舎弟が世話になったなァ」
 不良達の中央でリーダー然として話し掛けてきた赤髪に見覚えがあった。名前は知らない。そりゃそうだ、初対面だし。初対面のはずの相手の顔をどうして知っているのか。……僕にとってその答えは一つしかない。"視た"ことがあるからだ。それもついさっき、屋上で。
「は?誰だテメェ」
「■■高校って言えばちったぁ思い出すか?」
「いや、知らねぇ」
「テメェ……!」
 動悸が激しくなる。全身を悪寒が駆け巡って、吐き気すら込み上げてきそうだった。赤い髪の男の死体と、それを掴む矢後さんの映像がフラッシュバックする。気がつけば僕は矢後さんの腕を掴んで走り出していた。
「テメェ、何すんだよ久森ッ!」
「見れば分かるでしょう!?逃げるんですよ!」
「ハァ?いつもは黙って見てるクセに何だって邪魔すんだ!」
「今日はダメです!今日だけはダメなんです!」
 無我夢中で走る。背後から臆病者だの腰抜けだのとヤジが飛んできては、貴方がいちいち同じくらいの雑言を返しているのを上擦った意識の中で認識する。どれだけ臆病者だと罵られようと、そこに貴方を巻き込んでしまおうと、絶対にあの場に貴方を存在させてはいけないという警告が鳴り響いていた。直感なんて生温いものじゃない。僕の能力は直感と呼ぶには些か責任が重すぎる。
 慣れない生身の全力疾走で疲労が溜まった足が段差に蹴躓いて、矢後さんもろとも地面に転がり落ちる。倒れこんだまま見回した周囲に、不良達の姿はどこにも見えなかった。
「オイ、いい加減離せ」
 いち早く起き上がった矢後さんが僕の手を振りほどいた。コッチは息も絶え絶えで目眩だってするっていうのに、大して苦しそうでもない姿に本当にこの人は病気なんだろうかなんて場違いな感想が漏れた。……でも今はそんなことはどうだっていい。ここにいるのは"喧嘩から逃げ出した臆病者の二人"だ。拳を血で染めた殺人犯はいない。
「どーせまた変な未来でも視たんだろ。俺が死ぬとかそーいう」
 酷く軽い調子の声が頭上から降ってくる。
「えーっと、まぁ、そんな感じです……」
 一呼吸置いてそんな嘘を取り繕った。「貴方を殺人犯にする方が、貴方を殺すよりずっと怖い」だなんて、言えるはずもないのだから。

『少し先の未来が見える』
 それを知った人は皆決まって『羨ましい』と返してきた。そりゃそうだろう。未来予知なんて少年漫画で言えば花のチート能力だ。実際、便利かどうかと聞かれたらすごく便利であることに変わりはない。昔は降水確率五十パーセントの日に傘を持っていった方がいいかなんて、そんなしょうもないことに能力を使ったりもした。だから僕は他人の羨望の眼差しに苦笑しつつ肯定を返していた。『別にコレ、そこまで良いものじゃありませんよ』と心の中で呟きながら。
 初めて人間の死体を視たのは僕がまだ幼稚園の時だ。祖父の危篤の報せを受けた母はまだ幼い僕を連れて病院に駆け込んだ。正直大した交流もなく、たまに会ってはお小遣いをくれる人程度の認識しかなかった僕はどうして母がこんなに取り乱しているのかもよく分からないまま、「暇だから」というただそれだけの理由で、当時覚えたてのやはりよく分からない力を使ったのだった。そこには母の他にも複数の大人達が何やら沈痛な面持ちで中央の祖父を見下ろしていた。視線を移した先、数多の管に繋がれた祖父は眠っているようだった。暫くの後視界の映像は切り替わり、そこに映る大人は母とやはり眠っている祖父のみになった。『晃人くんはこっちでお姉さんと遊ぼうね』そうして看護師に病室を連れ出された僕は、結局、人が死ぬ瞬間を見ることはなかった。けれどきっとアレが僕が初めて視た人間の死体だ。
 慣れというのは恐ろしいもので、普通の人間であればトラウマにもなりかねない光景を「またか」の一言で流してしまえる程度には僕の神経は麻痺していた。腹から血を噴水のように流す死体、派手に吹き飛ばされては関節という関節があらぬ方向に曲がった死体、苦しそうに咳をしながらうずくまった後動かなくなった死体。おかげさまでそれなりのグロ映画であっても何かを食べながら見られるようになってしまった。それは未来視が原因というよりは僕の視界の中だけで死んでは結局生き続ける男のせいだったけれど。
 だから大した血も流していない、ちょっと首が折れただけの死体なんて、僕からすれば道端で干からびているミミズくらいのレア度しかないはずだった。

 立て付けの悪いドアを開ける。窓が開けっ放しなせいで風が駆け巡る教室には放課後のせいか人は疎らにしか存在していなかった。その疎らな人影も僕の姿を見るなりそそくさと教室を後にする。「どうぞごゆっくり!」不良の言葉としても、上級生が下級生に掛ける言葉としても違和感のある掛け声と共に僕は三年生のとある一クラスに取り残される。気乗りしないままに、大量の菓子やら他校の制服やらが積み上がった一等目立つ机に近づいた。そのまま机の下を覗き込む。
 目眩。
 ロン毛の黒髪の男が地面に倒れていた。その男を囲むようにして何人かの不良が必死に声を上げている。男の顔はひしゃげてしまってよく分からなかったけれど、それがもう生きていないということは認識できた。どれだけ体を揺すろうとちっとも反応しない様に泣き出す者までいた。不意に、不良の一人が立ち上がって誰かに詰め寄る。詰め寄られた先、金髪にバンダナを巻いた男はあまりにも僕がよく知っている顔だった。
 バサバサと机の上の荷物が落下する音に意識が引き戻された。荒い呼吸を繰り返す僕を、猫のような瞳が至近距離から覗き返してくる。それにびっくりして飛び上がったら机の角に頭をぶつけた。
「何してんの」
 上から声が降ってくる。僕は頭を抱えてうずくまったまま何も返すことが出来ずにいた。酷く頭が痛い、二重の意味で。心臓がうるさい。肺が苦しい。だって二度目だ。どうして二度も貴方が人を殺すところを見なくちゃいけないんだ。全身の血の気が引いて、熱でも出してるかのように震えが止まらない。運命。たった二文字が脳内に点滅し続けては僕を押し潰そうとしていた。イヤだ、ダメだ、やめてくれ。僕は絶対に貴方に人殺しになんてなってほしくない。鋭利な刃先をコチラに向けるそれを振り払った。
 恐る恐る顔を上げる。貴方はお菓子のパッケージを破っているところだった。
「もー大丈夫なわけ?」
「……はい、平気です」
 力任せに破くから中身がボトボトと落ちていく。落ちた分は気にも止めず、貴方はその次の個包装もやはり力任せに破り捨てた。ボキリと音が鳴って、折れたチョコレートが姿を見せる。それを口に放り投げた。
「……そうだ。今日のパトロールなんですけど、道順を変更してもいいですか?」
「べつに。覚えてねーし」
「だと思いました。そもそも覚える気あるんですか?」
「知らね」
 努めていつも通りを取り繕う。大丈夫。だって前もなんとかなったのだ。なるべくイレギュラーを増やして、未来通りにさせないようにすれば、きっと。そもそも貴方はいつも僕の視た未来を裏切ってくる。それにいざとなれば、どうやらヒーローである僕には運命を変える力とやらがそれなりにあるらしいのだから。
「なに、お前もコレ食いたいの」
「えっ、じゃあ貰っときます」
 ずっと眺めていたら、何かを勘違いしたらしい矢後さんが折れたチョコレートをくれた。味はほとんど分からなかった。

「疲れた……」
 制服のまま布団に倒れ込む。このまま目を瞑って眠ってしまいたかったけれど、目を瞑ってしまうと壊れたテレビのように網膜に直接未来だったものが流れ続けるから、目は開けたままに、けれど服を着替えようという気力も湧かないまま、布団の上で無意味に時が過ぎていくのを待った。頭が重い。鉛でも詰まってるんじゃないかってくらい、重い。いっそこのまま時が止まって、明日なんて、未来なんて、永遠に来なければいいと本気で願う。運命の二文字が貴方を指差しケタケタと笑っていた。そのケタケタ笑いを引き裂いて殺してしまいたかった。
 目を開けて映像を遮断しても、脳ミソは僕の言うことを聞かずに思考する。議題はいつも同じだ。『どうすれば矢後さんの人殺しを止められるのか?』貴方は誰も殺していないのにおかしな話だった。だけど僕は今日貴方が頭蓋を割る音を聞いた。昨日は内臓を潰すところを見た。一昨日は肋骨を砕いていた。ほとんど毎日、貴方が人を殺す風景を見る。今日なんてパトロールすらなかったにも関わらずだ。僕の視界の中限定で貴方は立派な連続殺人鬼だった。
「明日は合同訓練でずっと合宿所か……」
 だから、久々に安心できる。明日の予定をスマホで確認しながら僕は安堵の溜め息をついた。今のところ矢後さんが殺したのは彼に喧嘩を売った不良だけだったから、ヒーローのみんなや指揮官さん達に被害が及ぶことはないはずだ。明日は矢後さんが不良と出くわさないように気を張る必要も、ヒーロー活動じゃないにも関わらず未来視を使う必要もない。きっと安心して穏やかな一日を過ごすことが出来るだろう。
 ……そこまで考えて全身に悪寒が走った。激しい自己嫌悪を伴って止めどなく冷や汗が流れる。『今のところ』ってなんだ?将来貴方がヒーローの誰かや指揮官さんを殺すとでも思っているのか僕は?最低最悪の想像上の未来、それを堂々と否定しきることが出来ない。おまけに『不良を殺す矢後さん』に慣れ始めている自分がいた。学校に行って、貴方を視て、対策を練る。それが貴方が人殺しであることを前提としたルーティーンであることにたった今気づいてしまった。僕は貴方に人殺しになってほしくない一心で行動しているはずなのに、この世で一番貴方のことを人殺しとして認識しているのは紛れもなく僕自身であると自覚してしまった。貴方のご両親もお姉さんも指揮官さんも後輩達も、誰も貴方の殺人を止めようとしてくれないのは貴方が人を殺すことを少しも想像していないからで、僕が被害者と出くわさないように貴方の手を引っ張るのもわざとミスをして時間を稼ぐのも喧嘩に割って入って殴られるのも、僕は貴方が人を殺すと思っているからだ。冒涜と矛盾がブーメランになって僕に跳ね返る。誰よりも彼を救う気になって、誰よりも彼を信じていないのがお前なのだと運命の二文字が僕を指差しケタケタ笑っていた。「違う!」と反論することは出来なかった。
 だけどもう、このルーティーンは止められない。だって視てしまったのだから、そこにはもう責任が伴ってしまった。全くもって本当に無責任で最低最悪な力だった。このルーティーンが終わる日が来るとすれば、それは貴方の命日か、貴方が本物の殺人犯になった日なのだろう。ぐぅと間抜けな音が鳴る。こんな時でも腹は減るのかと溜め息をついて、重い体を持ち上げ制服を脱ぎ捨てた。

 近くにいた生徒を引き留め矢後さんの位置を尋ねる。後輩であろうと同級生であろうと先輩であろうと、彼らは皆引き留めたのが僕であると認識すると快く答えを返してくれた。貴方はみんなに尊敬され、僕はみんなに信頼されていると客観的に感じる。「ヤゴサン、強すぎてちょっと怖いけどお前がいれば安心だよな!」そう笑う級友に僕はどんな返事をしたのだっけか。
 カツンカツンと一人分の足音が響く。登り始めた時は永遠に終わらないように思えた階段も、五分と経たない内にあっさりと終わりを僕に提示する。そういえば始まりもこの屋上だった。どうして人間は思い出したくもないことばかり記憶にこびりつかせてしまうのだろう。やるせない気持ちと共に鍵の壊れた重い扉を開いた。
 風と一緒に未来が僕を吹き抜けていく。瞬きの後、現在を確認する。貴方は珍しく目を閉じていなかった。
「パトロールだろ。今日は覚えてた、なんとなく」
 喋りながら、僕と入れ替わるように貴方は屋上を去ろうとする。その腕を掴んだ。大人しく足を止めた貴方は怪訝な顔を僕に向ける。
「今日はパトロール、行かなくていいです」
「はぁ?」
 矢後さんが自主的にパトロールに赴こうだなんて、本当に本当に珍しいことだ。本来なら僕はそれを歓迎すべき立場で、間違ってもこんなことは一人のヒーローとして言うべきではない。ヒーローにとって最も大切なのは苦しむ人間を作らないことだ。だけど僕はもう、イーターによって苦しむ人間も、矢後さんに殺される人間も、全部どうだってよかった。
 両手に力を込める。貴方の腕の骨や、脈打つ血流を感じ取れる程に力強く。ただただ貴方のことしか考えられなかった。貴方を誰にも会わせたくなかった。
「僕のそばを離れないでください……」
 風が強い日だった。何度も何度も打ち付ける風は僕らを引き裂くのに必死らしい。ごうごうと風音が辺り一面に響いている。確かにこれではおちおち眠ってもいられないだろう。
 淡々と時が流れていく。その気になれば簡単に払いのけることが出来る手を貴方が振りほどくことはなかった。

「失礼するぞ」
 二回のノック音に、僕の許可の確認、非常に礼儀正しい入室過程を経て斎樹くんと御鷹くんは僕の部屋に足を踏み入れた。事前に訪問の約束をしていたにも関わらずの対応に、風雲児に通う僕にこんな上品な友人が出来るだなんてヒーローとは数奇なものだとつくづく思う。
「えーっと、調子はどうかな?晃人くん」
 恐る恐るといった体で御鷹くんは話を切り出した。客人だからと二人にベッドに座ってもらおうと誘導したら何故か断られたので、今この部屋ではベッドに僕と御鷹くんが、机に備え付けの椅子には斎樹くんが座っている。普段見下ろしがちな斎樹くんの視点が上にあるのはなんだか不思議な感覚だ。まるで僕を囲うような構図は後ろめたい気持ちを見透かされているようで、どうにも目を伏せがちになる。
「調子も何も別に普通だけど……」
「普通じゃないから俺達が来たんだ。何があった?」
「流石、直球だね巡くんは……」
 これ、多分マズいやつだ。斎樹くんに感心の視線を向ける御鷹くんの横で僕はだらだらと冷や汗を流していた。有無を言わせぬ斎樹くんの圧に御鷹くんの袖を引っ張り助けを求めるけれど、彼はただ曖昧に笑うばかりでどうやら僕に助け船を出す気は毛頭ないらしい。いわゆる八方塞がりという状況に半ば意図的に持ち込まれたことを悟る。事実、斎樹くんからの問いの答えなんて心当たりが有りすぎて最早どれを指すのかすらわからないくらいだ。それでもみんなの前では上手く振る舞っていたつもりだった。一体僕はどこでボロを出してしまったのだろう。黙りこくった僕に何を思ったのか、その疑問の答えはすぐに斎樹くんが教えてくれた。
「矢後さんから直接頼まれたんだ。『久森が何かヘン』だとな」
「えっ、矢後さんが?」
「そう。矢後さんから頼み事だなんて凄く珍しいことだから心配になって」
「お前達、この間のパトロールをサボっていただろう。矢後さんのことだ、また喧嘩に巻き込まれでもしたのだろうと無視していたがその時に何かあったのか?」
 畳み掛けるような追及に再び口をつぐむ。矢後さんのことだから僕のことなんてろくに気にしていないだろうとたかをくくっていたけれど、どうやらそれは違ったらしい。しかも直接じゃなく斎樹くんと御鷹くんを介してくるだなんて矢後さんらしからぬ回りくどさだ。一体どこでそんな手段を覚えたのだろう。そして自惚れてもいいのだろうか、貴方が僕を気に掛けてくれたことに。
 いや、そんなことは後回しだ。重要なのは一つだけ、貴方は一体どこまで気づいているのか否か。僕が貴方のバッドエンドを見続けていることは?それを変えようともがいていることは?貴方を殺人犯だと認識していることは?
「多分矢後さんには言いづらいことなんだよね?俺達でよければ話を聞いてあげられるし、それに、一人で抱え込むのは良くないことだから」
「守秘義務は守るぞ」
 二人の優しさが棘として刺さる。斎樹くんも御鷹くんもとても優しい人間だ。だから余計にこんな惨状に巻き込んだらいけないのだと全身が警告する。二人だけじゃない。ヒーローとは悪を挫き善を良しとする存在であると、日本人であれば誰もが知っている。貴方の悪は、殺人は、僕以外の誰にも知られてはならないのだとほとんど脅迫めいた思考が脳を支配していた。
 貴方は誰も殺していない。『だけど時間の問題だ。』貴方はヒーローだ。『人殺しでもあるけれど。』うるさい黙れ!『さぁ、お前はどうする?』
 長い沈黙が狭い部屋を満たしていた。それを切り裂くのが僕の役目であることは明らかで、意を決して重たい口を開く。だってどうせ、何を言うべきかなんてことは初めから決まっていたのだから。
「心配しないで。僕は、大丈夫だから」
 絞り出した声も表情も、きっと違和感しかなかっただろう。けれど二人がそれを指摘することはなかった。当たり前だ。だって二人は優しいもの。
「……俺は心療内科は専門外だ。これ以上あれこれと口を挟むための技術はない」
「折角の貴重な同い年なんだし、頼ってくれると嬉しいかな。手遅れになる前に」
 ぎこちない笑顔で二人を見送る。タイムリミットが迫っているのだと直感が告げていた。貴方の運命と、僕のなけなしの努力とのいたちごっこに、早く終止符を打たなくちゃいない。それこそ手遅れになる前に、僕の手で。

 夕暮れの陽光が部屋を満たしていた。オレンジに染まる室内は些か視界が悪い。唯一の光源である窓のすぐ傍に座りながらこちらに振り向いた顔は逆光でよく見えなかった。
「どうしたんですか、ノックもせず」
「斎樹と御鷹は」
「もう帰りましたよ」
 相変わらず何かが変だ。動物的直感が自分に違和感を伝えてくるが、具体的に何がおかしいのかの見当は付かない。ドアの前に立ったまま、矢後はつい先程斎樹に言われたことを思い出していた。
『久森が何かを隠していることは明白だろう。ただそれを知るのには俺達でも時間が掛かりそうだ。矢後さんも下手に突っ込んで暴走させるようなことがないように気を付けてくれ』
 全くもってまどろっこしい。そう思ったので舌打ちをしたら『久森の前ではやめておけよ』と釘を刺された。矢後は、自分を含めて人間そのものに対する興味が薄い。皆がなぜ自分に向かって心配だと口々に言うのか、自分を見て膝を震わせ恐怖するのか、あまりピンと来ていない。そもそも他人が何を考え何を思いながら行動しているかなど知ったことではないという考え方の持ち主だ。誰だって何だって好き勝手生きればいい。
 ただ最近の久森の奇行については何かが引っ掛かっていた。それはただの直感としか言い様のないものだったが、感覚が極端に鈍く頭も悪い矢後にとっては直感以上に信頼できるものの方が少ない。矢後には他人が何を考えているのかなんて分からない。だから頭が良く久森とも仲の良い年下二人に事を頼んでみたが、どうやら進展はなかったらしい。
「風邪とか」
「健康ですよ」
「彼女にフラれたとか」
「そもそもいませんし」
「バクシ……だっけか、でもしたのか」
「してませんよ。どうしたんですか、急に」
 思い付く限りで人間が落ち込みそうなことを羅列してみるが、久森は毒にも薬にもならない返答を寄越すだけだった。いつもと寸分変わらぬ声のトーンが逆に気味悪い。日が沈むにつれて、室内の光量が減っていく。久森の顔も、どんどん見えづらくなっていく。
「テメェ、俺の未来に何を視た?」
 それは根拠のないただの勘だ。なんとなく、彼の奇行の原因は自分にあるような気がした。
「……いつも通り、誰かさんが死ぬところですよ」
 一瞬、久森がこちらを強く睨み付けているような気がして暗がりの中に目を凝らす。「部屋、暗くなってきたので電気付けますね。」パチリとスイッチの切り替わる音と共に明かりで満たされた室内には、見慣れた気の抜ける面が一つあるだけだった。
「…………寝る」
「あっ、そうだ」
 面倒臭ぇ。そう結論付けて部屋から出ようとする矢後に久森は声を掛ける。
「明日は、いつも通りでいいですよ」
 バタンと乱暴に扉を閉める。去り際に掛けられたいつも通りの声の調子に矢後は舌打ちを返した。

 薄汚い路地だ。視界にはゴミが溢れ、すえた臭いが嗅覚を刺激する。あまりにもおあつらえ向きな風景に思わず笑い声が漏れた。その音に気付いたのだろうか。たむろしていた不良達の目が一斉にこちらを向く。
「何だテメェ」
「随分ヒョロっちいな」
「迷子なら帰った方がいいぜ?」
 視たことだけがある名前も知らない初めましての誰か。ろくな親孝行も親切もすることなく喧嘩に明け暮れているのであろうグズの集団の標的になるのを黙って待つ。そのように相手を社会の底辺と認識したところで、罪の意識が僕を蝕むことを止めることはない。覚悟は決めた。それだってのに手足が震えてしまって困る。
「その学ラン風雲児だよなァ?そういやこの間ザコをボコしたっけか?」
「震えちゃってまあかわいそうに。弔い合戦ってか?ケンカできそうなナリには見えねぇけど」
「今からでも泣く子も黙ると評判のヘッドに助けを呼んだらどうだ?なぁお坊っちゃんよ」
「……あの人は当分来ませんよ。ちゃんと視ましたから」
 そのままリンクユニットを砕いた。すっかり着なれた黒の戦闘服に黄色のマフラー。僕の姿を改めて認識して、ようやく彼らは嘲笑から獲物を見つけた獣へと表情を変える。どうやらこんな場末の不良にもヒーローの存在は有名らしい。
「ヒーロー直々ってか。こりゃ随分と高く買って貰えたもんだ」
「ヒーロー様も大変だなぁ。こんな不良の相手をしなきゃいけねぇだなんて」
 "ヒーロー"。僕のことをそう呼んでくれる彼らに申し訳なさが募る。変な感情だ。今の僕は登録上ヒーローであることは明らかだし、善の象徴とされるヒーローに対して彼らはただの悪でしかない。それも小者の類いだ。印象だけで言ったら普段の矢後さんの方が悪役じみている。……だから貴方を本物の悪にしないために、僕はここにいるのだけれど。
「ヒーローだろうがなんだろうが一人しかいねぇならただの袋叩きだ。いくぞ!テメェら!」
 中央の、恐らくはリーダー格であろう男が声を張り上げると同時に雄叫びが上がり人がなだれ込んできた。先陣を切って突っ込んできた男の足を糸ですくう。そのまま転がった背中の影から飛び出すように拳が振り下ろされ、それをかわした先に足が伸びてきたから咄嗟に腕でガードした。殴られ蹴られ、時折鉄パイプやらの鈍器が飛んできて、それらを黙々といなしていく。「逃げてばっかいねぇでソッチからもかかってこいや!ビビってんのかァ!?」ついでのようにあちらこちらから怒号も飛んでくる。確かに僕は怖じ気づいているのかもしれない。僕はそれを否定しない。どうやら応援を呼ばれたらしく、手数に任せて四方を囲まれたので糸を建物の突起に引っ掛けて空中に逃げた。やけくそ気味に投げられた小石が背中や肩に当たる。糸をコントロールしながら建物間を移動して、中央に構えるリーダーと、その相棒のような男の前に着地した。呼吸が荒くなっているのが自分でも分かる。こんな奴ら、イーターの相手をするのに比べたら比較するのも烏滸がましいほどの雑魚だ。それなのに糸を手繰る両手の震えは治まらない。
「狙いは俺達か」
「賢いな。でもよぉ、手足が震えちまってるぜヒーロー様!」
 ごめんなさい。僕は昨日、あなた達の首が折れるところを視てしまったので。
 大きく深呼吸をして、糸を手繰り寄せた。
「頭ァ!?」
 不良達が遠巻きにたじろいでいるのが目に見えた。酷く苦しそうな呻き声二つ分と、僕に殴りかからんとする不良達の怒声が耳に入る。糸で首を締めた二人を盾にしながらなんとか攻撃を避けていく。僕が動くたび、狙いが逸れた仲間達の義憤の拳が当たるたび、呻き声はか細くなり目の生気も無くなっていく。取り巻く不良達の視線はいつしか怒りから恐怖に変わり、やがて、僕を襲う人間はいなくなった。「人殺し!」誰かが叫ぶ。僕はそれを肯定する。
 震える手で糸を引っ張る。片方の頭がなけなしの力で喉を掻きむしりながら眼球だけで僕を見上げていた。この世全ての恨み辛みを集めたような視線に、全身を恐怖が駆け巡り背中にダラダラと汗が流れていく。堪らなくなって視線を逸らす。仲間が何人か減っていた。きっと警察を呼びに行ったのだろう。もう時間がない。早く終わらせなくちゃいけない。この人達を楽にするためにも、僕自身が楽になるためにも、貴方を救うためにも。理解はしている。だけど後一歩が上手く踏み出せない。昨日視た今日の未来。二つの首はもっと呆気なく折れていた。"ポキリ"。そう、ちょうどこんな音を立てて。
 僕を見上げていた瞳孔が開いて、何も映さなくなった。ぐたりと倒れた頭には別の誰かの手が乗っていて、手から腕へ、腕から顔へと視線を辿った先、そこには今一番見たくない顔があった。
「なん、で……ここに…………?」
 どうして。貴方がここに来るのはもっとずっと遅いはずなのに。
「何って、勘?」
「僕は……僕は……貴方のために今まで!」
 グエと一度だけ大きな音を立ててもう一つの頭が垂れた。知らず知らずの内に握りしめていた糸を手放して、地面にへたり込む。殺した。殺してしまった。殺させてしまった。事実が淡々と僕を圧迫する。リンクを解いた。これでもうここにヒーローは存在しない。ここに居るのは、ただの。
「大丈夫かよ、久森」
 何てことはない調子の声が降ってくるから、僕は貴方の足にすがり付く。いつの間にか僕らの周りには誰もいなくなっていた。皆恐怖で逃げたのか、それとも貴方が追い払ったのか。捨てられた菓子の包装紙が風に吹かれて死体の上を飛んでいた。目を覆いたくなるようなゴミ溜まり。ここにいるのは、ただの人殺しが二人だけ。
「どうして……いつも人を殺すんですか……?」
 吐き気の隙間から声を絞り出す。僕の酷く不可解な質問に貴方はぱちりと瞬きを一つして、「そーいうことか」と小さくこぼす。立ち上がれない僕に合わせるように貴方は地面にあぐらをかいた。くしゃりとプラスチック袋の潰れる音がした。
「僕はっ、貴方に、人殺しに、なってほしくなくて……!」
「それで自分が代わりになろうってことか」
「……そうなる……んですか、ね……?あは、もう、わかんないや…………」
 視界に大きな手が迫ってきて、無理矢理に顔を正面に向けられた。ようやくまともに向き合った矢後さんは、珍しくちょっと悲しそうな顔をしている、ような気がした。わからない。ぼやけた視界が僕に都合の良いように世界を写し出しているだけかもしれない。目尻を貴方の指が撫でていく。善人だろうと人殺しだろうと、人の手は温かかった。
「……なんか、悪かったな」
「謝らないでくださいよ……もう全部終わりなのに……」
「そりゃお前もだろ」
「そっか、そうですね……。あは、あはは、僕たち、お揃いですね……」
 あれからどれだけ時間が経ったのだろう。警察はどこまで迫っているのだろう。ALIVEはどれだけ慌てているのだろう。あとどれだけ、貴方と二人きりでいられるのだろうか。
「僕のそばを離れないでください……」
「いかねーよ。どこにも」
 僕の肩に貴方は頭を乗せる。ゴミの吹き溜まりだろうとそばに死体が二つ転がっていようと、所構わずいつものようにウトウトし始める貴方をその度起こしながら、僕達は一瞬の永遠を享受する。結局何も出来なかったヒーロー改め人殺し同士、二人寄り添ってサイレンを待った。


∴非実在殺人犯


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