「爪を見せろ、隼」
端的で、且つ明瞭な声が響く。声の主であるユートは腕組みをした仁王立ちで目の前の人物を注視した。その左手には爪切りが握られている。声が明瞭なら、意図もまた明瞭だった。
対する声を掛けられた相手、黒咲はいかにも不満げに眉間に皺を寄せて雑誌から顔を上げた。精悍な顔つきは何も知らない女子が見れば黄色い歓声が飛ぶかもしれないが、その実態は幼児の我が儘と大差ない反抗だ。
「爪切りをそこに置いておけ。自分で切る」
「それは昨日も聞いた。いいから早くしろ」
そう言うや否やユートは黒咲の手を雑誌から引き剥がし、自分に向けて突き出すような姿勢にする。ご丁寧に下にはティッシュまでひいてあった。結局強引に敢行するなら初めからそうしてしまえばいいのに、そんな口に出されない不満がユートに届くことはない。
黒咲の爪はたいていの場合鋭く長く尖っている。それがファッションのためでも威嚇のためでもなく、日頃の不摂生からくるものだということを知っている者はどれだけいるのだろうか。
まるでデュエルの腕と反比例するように黒咲という男の生活能力は乏しかった。彼の関心の中心にはいつもデュエルか妹の瑠璃がいて、自分の生活は二の次、それどころかどうでもいいという節さえ見受けられる。フィクションの世界ならばそれでいいかもしれないが、生憎ここはリアルだ。物を食べなければ死ぬし、身だしなみに注意しなければ周りから疎まれる。しかしそれすらも興味の外に追いやる彼に業を煮やしたのはユートだった。
「いいか、隼。爪が伸びればそれだけ他人を傷つける可能性があるんだからな。お前だって瑠璃や俺を傷つけたくはないだろう?だいたいお前は自分に頓着しなさ過ぎる。この前だって……」
ぱちぱちと爪が切り落とされる音をBGMにユートの説教が続く。日常の些細な事にまで及ぶそれを文句一つ言うことなく聞きながら、というより聞き流しながら、黒咲は自分の体の一部だった物がぱらぱらと落ちて行くのを見ていた。不思議な感覚だった。自分で切れば訳も違うのかもしれない。けれど、いつしか爪は他人に切ってもらうことが当たり前となってしまった彼はそれを知ろうとは思わなかった。
彼らは疑問を抱かない。黒咲の家の爪切りの場所をユートが知っていることに。日常の細やかな内情を共有していることに。黒咲の不摂生を助長させているのは他でもないユートであるということに。
それらを当たり前とする彼らの日常において、己のファクターはそれほど重要ではなかった。大切なのは己の直ぐ側に寄り添う人影である。爪と皮膚とが剥がれることがないように、彼らも互いの側を離れなかった。ほとんど無意識にも関わらず。
「終わったぞ、隼」
深爪をしないよう白い部分を僅かに残して切り揃えられた指先を見ながら、果たして前に自分で爪を切ったのはいつだったかと思案するも遠い記憶に埋もれて見えなかった。けれどそんなことはどうでもいいことだった。爪をこぼさないよう丸めたティッシュをゴミ箱に捨てるユートの後ろ姿に黒咲は声を掛ける。
「デッキの調節をしたい。お前も手伝え」
断られるなど微塵も思っていない、そんな口調で彼は問い掛けた。爪を捨て終えたユートがゆっくりと振り向いて肯定の形に口を動かす。実際、断られるなんて事はないのだった。彼が己の側を離れるなどありえないとでも言うように。
そこに彼らは疑問を抱かない。なぜならそれが当たり前だからである。
∴君がはがれてしまわぬように