どこか、異空間へと足を踏み入れたような心地がした。
 仕事に疲れた人を吐き出した口に旅行に浮かれる人と一緒に吸い込まれながらそんなことを考える。五月某日金曜日。温かくなってきたとはいえまだまだ夜は冷えるからと羽織ってきた上着は空港の空調には少し暑くって、腕まくりをしようと足を止めたその一瞬の隙に先輩の姿を見失って馬鹿みたいに焦った。すれ違う顔も名前も知らない他人が自分達を責めるようで、喉元を押し潰されたように息が苦しくなったとき不意に腕を掴まれる。「辻ちゃん大丈夫?」よく見知った顔、見知った声。それに安堵して涙が滲むのを必死に堪えた。
「……先輩、歩くの速いです」
「こめんごめん。まあ慣れてるからね」
 そう言ってまたすぐにスタスタと歩き始めてしまった先輩を恨めしいと思いつつ、こんなことやめましょうと言い出すことはできないまま黙ってその後ろ姿を追いかけた。
 果たしてこれは"逃げ"なのだろうか。二宮さんにこの事を告げればきっと眉間にこれでもかと皺を寄せて、けれど何か罵声を浴びせられることもないまま行ってこいと見送られる、ような気がした。あれ以来二宮さんは愚かひゃみさんにも会ってないからこれは全て俺の妄想だ。根拠もなく永遠に続いていくと思っていた光景がガラガラと崩れていくのをまるで傍観者のように眺めていた。明日もあの部屋に行けば掃除の手を止めて「早いね」と笑う先輩がいるような。そんな錯覚。あるいは願望だろうか。空想と現実の境が酷く曖昧で目眩がするようだった。ずしりと重たいボストンバックだけが辛うじて俺を現実に止めている。
「それにしてもさー、辻ちゃん、よく親説得できたね。厳しそーなのに」
「してないです。ボーダーで泊まり込みの用事があるって嘘ついてきました」
「へぇ、辻ちゃんも意外と悪い子だね。まあおれもなんだけど」
 あの後、二宮隊が一ヶ月の謹慎処分を受けたことは話していない。というか、そもそも何も話していない。「最近忙しいのね。」出掛け際に呑気に掛けられた声に何も返さず、先輩と待ち合わせて、電車に乗って、バスに乗って、ここまでやって来た。
「それにしてもチケットもホテルも無事取れてラッキーだよね。辻ちゃんは東京何度目?」
「中学の修学旅行で少しだけ」
「だよねぇ。王道を攻めるとどこなんだろう?スカイツリー?とか?辻ちゃんはどっか行きたいところある?」
「特にないです。先輩が自由に決めてください」
「うわ、それ一番面倒臭いやつだから」
 何てことはないとりとめのない会話。やり残した日常を今更に埋めようとしたって、突然訪れた災難の真似事をしたって、何かが変わるはずもないことくらい分かってる。多分、先輩も分かってる。それでも俺は先輩を振り切ることができなかった。突然消えてしまった先輩を否定することもできなかった。
 フライトのアナウンスが空港内に響く。呪いのように俺達を縛りつけた町は拍子抜けするほどあっさりと俺達を手放そうとしていた。空高くから見下ろした町はどんな姿をしているのだろうか。どんな姿をして先輩を見送ったのだろうか。
「このまま帰ってこないとかもアリかな。無理だけど」
 先輩に導かれて搭乗ゲートをくぐる。三門の町がさようならと言っているようで俺は手を振り返した。先輩の気持ちがほんの少しだけ、本当に少しだけ、分かったような気がした。


∴後追い逃避行


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