人を殺したことがある。それは殺人事件におあつらえ向きな暗く湿った路地裏の出来事で、当時の俺は年で言えば小学校の高学年になりたてくらい、分別もつかない子供でありながら責任の所在を認知できる程度の頭を持ち合わせていた頃の話だ。家庭は荒み友人もいない。そんな俺に居場所なんてものがあるはずもなく、唯一のテリトリーとして足繁く通っていたのがその路地裏だった。そこはいつも陰鬱な空気とビールの空き缶と吸い殻で満たされていて、時折野良猫がやって来ては酔っ払いが吐いたゲロを踏みつけていくような、そんな場所だった。誰もがそこを汚いと罵って近づこうとはしなかった。それが、俺がそこに居る理由だった。
けれどその日は違ったのだ。喧嘩を終えた俺がいつものように路地裏に来たときそこには先客がいた。こちらに背を向けているせいで顔も年齢も分からない、辛うじて体格から男だろうと想像する人間は奥の方に縮こまってぶるぶる震えている。俺はまた酔っ払いが迷い込んだのかと思ってケツでも蹴り飛ばしてやろうといつも通り路地裏に足を踏み入れた、途端、縮こまっていた背中がぐるりと振り向いてギラギラとした双眸と目が合う。その一瞬、俺は足が竦んで動けなかった。それがいけなかった。急に立ち上がった男が俺めがけて突進してくる。その手には銀色をギラギラと見せつけるナイフが握られていた。俺は馬鹿じゃなかったから、その銀色が料理ではなく俺を殺すためにあるのだと瞬時に理解することが出来た。そしてすぐ、死にたくないと思った。
それからはもう無我夢中だ。あの時ほど自分の運動神経に感謝したことはない。相手の大振りな動きは簡単に読みきることが出来たし、どこを殴れば人は一番痛がるのかも知っていた。男が高々と振り上げた右腕の下に潜り込んでみぞおちの辺りに頭突きをかます。男は低く唸り、その右手からナイフが落ちた。すかさずそれを拾い上げる。男がナイフを奪い返そうとして腕を伸ばしてくる。俺は咄嗟に子供の手にはまだ大きいそれを両手で強く握りしめて男の腹めがけて突き刺した。ぐにゃりとした柔らかい肉の感覚が鉄越しに伝わる。男の慟哭が狭い路地裏にこだまする。倒れた男はそれでも俺を睨み付け襲い掛かろうとした。これを奪われてはいけない。そうしたら自分が殺されてしまう。脳裏にこびりつく死にたくないという本能に突き動かされて、俺は男を刺した。何度も何度も刺した。男が動かなくなっても、切っ先が骨を叩くだけになっても、何度も何度も何度も。そうして原型を止めないほどに血肉が散乱した様を見て、初めて自分が何をしたのかを理解した。そして急に恐くなった。さっきまでの本能的な恐怖とは真逆の、倫理や道徳の暴力が脳ミソを支配する。俺は逃げ出した。あんなに居心地の良かった路地裏が恐怖の対象でしかなくなって、一刻も早くその恐怖から逃れる為に全速力でひた走った。幸いにも血塗れで全力疾走する俺を咎める大人には出会わず、誰もいない家のゴミ箱にそれまで着ていた服を捨てて、その上に吐いた。ぐにゃりとした生温い感触がすぐそこにこびりついて離れなかった。なけ無しの良心が俺の中の汚い部分を全部追い出そうとしてるみたいにただただ吐いた。そうして何も出すものが無くなって、初めて全身を気だるげな安心感が支配する。そんな自分に嫌気がさした。それからしばらくして帰ってきた母親はまず俺がいることに驚き、次に部屋に充満するすえた臭いに露骨な嫌悪を示したけれども、何も言ってはこなかった。そうして血塗れの服は無事ゴミとして処分され、俺は汚れていない服を着て元の生活に戻ることが出来た。その後しばらくはコンビニで新聞を立ち読みしたのだけれど、結局それらしい記事を見つけることは出来なかった。死体がまだ見つかっていないのか、それとも新聞に載せてはいけないような人間だったのか。あの日以来、あの路地裏にいかなくなった俺には分からないことだったけれど。
そんなことをつらつらと話せば目の前の顔は驚きと戸惑いを隠そうともしなかった。ゴーグルの奥で緋色が揺らぐ。さっきまでの威勢の良さはどこへやら、少し怯えているような表情はあまりにも予想通り過ぎて。
「とまぁ、そういう訳だから、やめといた方がいーよ。鬼道クン」
不動、お前が好きだ。そう言われたのがついさっきの話。いかにも告白にもってこいな人気のない建物の陰で俺は心臓が止まったのが分かった。どうしようもない嬉しさがそうさせたのだった。それと同時に、どうしようもない罪悪感が俺を性急に突っつくのだった。
「お前の全てを知りたいと思ってしまったんだ」
その言葉を聞いたとき、相変わらず神様は俺が嫌いなんだとつくづく感心した。なんて残酷なんだと、悲しみを通り越して呆れしか出てこない。俺はつとめて平静を装って、鬼道に、俺が人を殺した時のことを話した。なるべくリアルに、なるべく残酷に、もう二度と好きだなんて言わせないようにゆっくりと分かりやすく噛み砕きながら話した。これは警告だ。鬼道が綺麗なままでいるためにはその感情は殺さなければならないという警告。残念なことに俺も鬼道のことを好いていた。だからこそ、コイツを汚してはいけないのだという強い使命感が俺を支配した。鬼道の顔が歪んでいくのをスローモーションのように捉えながら、俺の口は止まることなく人が肉塊となっていく様を描写する。
俺は鬼道が逃げるのを待った。あの日の俺が男を殺して逃げ出したように、鬼道が恋心を殺して逃げ出すのを待った。そうすれば全て元通り、無かったことに出来ると、俺は思っていた。だから鬼道の腕が俺を抱き締めたとき、俺の心臓は再度止まったのだ。
「すまない。お前の気持ちは汲んでやれそうにない……」
「……何ソレ」
「もう、手遅れなんだ……」
鼻をすする音で鬼道が泣いてるのだと分かる。泣くほどなら殺してしまえ。そんなこと、言える訳がない。俺はやっぱり笑うことしか出来なくて、嬉しさと悲しさと驚きと戸惑いとをごちゃ混ぜにした溜め息を一つ溢した。そして恐る恐る、その背中に腕を伸ばした。鬼道がピクリと反応する。生温い体温は殺めた男の血液の温度とよく似ていて恐かった。
「……ほんっと、どうしようもねぇな」
俺も、お前も。そう言って鬼道に口付けた。柔らかくて温かい生きている人間。綺麗な綺麗な鬼道をこれから汚していかなきゃならないことが苦痛で、俺はその舌を少し噛んだ。鉄の味がする。こんなにも嬉しくてこんなにも悲しいキスなんて、世界中どこを探したって見つかりゃしないだろう。
∴告白