その日はとても蒸し暑くて、テレビをつければどこかしらのチャンネルは最高気温を更新と騒いでいるような一日だった。クーラーが効いて涼しいを通り越して寒い教室から一歩でも踏み出せば、待ってましたと言わんばかりにこれでもかと猛暑が襲いかかる。いくら近未来的なギミックで溢れるハートランドと言っても町を丸ごと冷やすだなんて暴挙が出来るはずはなくて、暑い暑いと言いながら校舎の廊下を歩く生徒の姿はこの季節のありふれた光景だ。
 そんな生徒の内の一人である遊馬も例に漏れず暑い暑いと言いながら廊下を歩いていた。珍しく、彼の暑いという言葉に反応する人間はいない。誰だってわざわざ自らに苦行与えてまで友人の些細な用事に付き合おうとはしないのだ。そこに一抹の寂しさを感じていた遊馬は、目的の自動販売機の前によく見知った姿を確認したとき迷わず大声を上げた。
「おーい!シャーク!」
「……遊馬か」
 突然の大声に、気だるいのを隠そうともしない緩慢な動作で凌牙は振り替えった。その手には未開封のミネラルウォーターが握られている。
「偶然だな!」
「……ああ」
「なんか今日お前元気なくね?」
「こんな糞暑いのに大声で騒ぐお前の方が異常だ」
 ある意味ではいつも通りと言える素っ気ない対応をしながら凌牙はミネラルウォーターの蓋を開けた。呆れる程に透明な水が少し跳ねる。
 凌牙はよく水を飲む人間だった。それは今回のようにペットボトルに入ったミネラルウォーターだったり、水道の蛇口をひねっただけのあまり美味しくない水だったりと様々だけれど、少なくとも遊馬は神代凌牙という人間が色のついた液体を飲んでいる所を見たことがなかった。
(ジュースの方が水道水の何百倍も美味しいハズなのに。変なヤツ)
 そう思いながら、なんとなく喉仏が上下する様を眺めていたら咎めるような目線が向けられる。それを誤魔化したくて慌てて自販機に向き直って小銭を投入した。少し迷って、左上のコーラのボタンを押す。直後、売り切れの青い文字が点灯した。
 ゴンッと心配したくなるような音を立てて落ちてきたコーラを遊馬が拾い上げた時には、凌牙のペットボトルの中身は半分程になっていた。そしてようやく水を飲むのを止める。それから少し眉を潜めた。そりゃあんなにガブガブと水を飲めば胃がもたれて気持ち悪いだろう。まるで体内の異物を押し出すように水を流し込む姿は潔癖を通り越して異常だ。
 じわり。鉄筋コンクリートから立ち上がる熱気が遊馬と凌牙を包んでいた。二人以外の生徒の姿は見当たらないのに、まるで人込みの中に放り込まれたような熱気は容赦を知らない。特に手のひらが滲む心地がするなあと思っていたら、コーラが結露で濡れていた。
 冷やされた熱気が水滴となって現れたそれを、昔は中身が染み出している物だとばかり思っていた。なんだかもったいない気がしてボトルの外装を舐めてみればなんの甘味もしないただの水でしかなくて驚いたのを覚えている。まだ封を切ってすらいないコーラは一刻前と変わらぬ水面を揺らいでいた。
「暑いな」
「ああ」
 うわ言のように口をつく言葉に意味なんてなかった。茹だった頭は無遊者のようにどうでもいいことばかりを考える。流れる汗が、水に圧迫された胃が、渇いた喉が気持ち悪い。けれどそれをどうこうする術なんて無くて、気持ち悪いということに慣れきった体は静かに汗を排出する。遊馬の目に映った凌牙の首筋を流れる汗は透明だった。血の色でも鉄の色でも塩の色でもない、透き通る透明だった。
 凌牙が再びペットボトルのキャップを開いて水を飲み始める。それでようやく遊馬も自分の喉が乾いていたことを思い出した。蓋を開けようと手を捻れば、振動で結露が足元に小さな水溜まりを作る。その色もやはり透明であり、コーラの色はしていなかった。中身の異物は外へは流れ出ない。自分達もまた同じだった。どれだけ水分を流し込もうとも自分の血液、ましては体の違和感が染み出してくるなんてことはなくって、むしろ水分による違和感が体を圧迫した。違和感は己の人間性を否定し、まるで自分が人間ではないかのように感じさせる。それがどうしようもなく嫌で凌牙はまた水を飲んだ。
 変な奴。ペットボトルを空にする凌牙を尻目に遊馬もコーラに口をつける。甘ったるい刺激を持った水分が彼の体から茶色を滲ませることはない。


∴結露


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