犬を飼っている。無愛想だけれど、とても賢く従順で可愛らしい犬を。

 その日のおれは機嫌が良かった。最近流行りのラブソングを口ずさみながら足取り軽く自分たちに割り当てられた隊室へと向かう。右手には可愛いの暴力。ピンクの箱に白のリボンをあしらって、どうです?わたしかわいいでしょう?と言わんばかりの顔をしておれにあまり揺さぶるんじゃありませんと訴えかける。中身はさながらお姫様と言ったところだろうか。小さくて、繊細で、そしてどこまでも甘ったるい。
「よお犬飼。まーた可愛い箱ぶら下げてんな」
「あっ荒船」
「それもあれか?」
「そだよ。あの子、ここのお店のやつ好きだから」
 すれ違い様、足を止めない程度の軽い会話をして荒船に手を振る。別に急ぐ必要などこれっぽっちもないのだけれど、無意識の内に早足に歩くおれの体はあっという間に荒船を置き去りにした。代わりに目の前にそびえるのは平坦無機質な飾り気のない扉。ようするにゴールだ。
「ヤッホー、辻ちゃん!」
「相変わらずうるさいですね、先輩」
 開口一番、相も変わらず表情筋の死んでる顔をしてそんなことを言う。いかにも礼儀を重んじそうな所作、風貌をしておいて意外と失礼な奴である。偏見だけど。
 けれど今日のおれは機嫌が良いのだ。可愛い可愛い後輩の小言など聞かなかったことにしてあげようという気概だって湧いている。それに、
「これがどうなってもいいのかなぁ?」
「……!!」
 右手の箱を眼前にかざすと彼は面白いほどに興味を示した。黒々とした目玉にピンクを反射させて、まるで猫じゃらしをじっと見つめる猫のような様子である。ふふふ。愛しさのあまり思わず溢れた笑みを彼は見逃してはくれなかった。「焦らさないでください、犬飼先輩。」焦れったい声でおれの名前を呼ぶ。
「ごめんね。キミが可愛いからさ、つい」
「冗談はいらないです」
「冗談じゃないんだけどなぁ」
 さて、ひとしきり彼で遊んだあとはいよいよお姫様とのご対面だ。真白いリボンを絡まないように丁寧にほどいて、お姫様の機嫌を損ねないようゆっくりと蓋を開く。途端、むせ返るような甘い香りが室内に充満して、みるみる内に彼の顔がほころんだ。表情に乏しいポーカーフェイスに見せかけて、存外分かりやすい子である。
「まだ食べちゃダメだよ」
箱の中身は真っ白なショートケーキ。キラキラと光る生クリームの上、ちょこんと正座する真っ赤に熟れた苺がその存在感を主張している。大きさは小ぶり、でも評判は上々で、これを買うためには少し並ぶ必要があった。その苦労も全てはこの一時のためである。辻ちゃんは目を期待に輝かせ、食い入るように箱を覗き込んでいる。口はだらしなく半開きにされ、今にもよだれが垂れてきてしまいそうな、そんな顔。でも彼は賢い子だからおれの「待て」の命令に逆らうことはしなかった。背中にゾクゾクしたものが這い上がる。今この瞬間、彼の支配権は紛れもなくおれにあった。この子の期待も落胆も己の手の内に存在するという事実が俺を高揚させる。支配欲。それが満たされたとき、人間はどうしてこんなにも幸福を感じるのだろう。
 メスを入れるようにしてショートケーキに付属のプラスチックフォークを差し込めば彼は更に身をのりだし息を荒くした。それは最早餌を前にした犬と相違ない。まだ、まだダメだよ。言葉で牽制をかけながら、ケーキが崩れてしまわないようにゆっくりとスポンジを切っていく。そうして丁寧に切り分けた一片にフォークを突き刺した。生クリームが少し溢れる。それを名残惜しそうに見つめる彼の視線を遮るようにフォークを差し出した。瞳の輝きが増した、ような気がする。あは、可愛い。待ての言い付けを忠実に遂行する彼はもうおれの感嘆に小言を言うことはしなかった。可愛い。可愛いよ、辻ちゃん。今、ご褒美をあげるからね。おれはもう彼にメロメロだった。こんなにも愛しく、可愛らしく、美しく、素直で、純情で、そして愚かな子なんて、世界中探したってこの子しかいない。
「食べていいよ」
 おれの一言に彼は一目散にケーキにかぶりついた。口回りが生クリームで汚れるのもいとわずに小さな口いっぱいに頬張る様のなんと愛らしいことだろう!もっと、もっとください。そうねだる瞳に勝てる術をおれは持ち合わせていなかった。いいよ、あげる。全部あげちゃう。おれが切り分けて、それを彼が食べる。時々彼の口回りの生クリームを拭ってあげる。彼がそれを舐める。おれの指すら美味しそうに咥えてくれる。それを見て、明日は、明後日は、何を持ってこようかと考える。辻ちゃんのこんなに可愛らしい姿を独り占め出来るのならどんな高級菓子だって手に入れてあげられる気がした。
「美味しかった?」
「美味しかったですよ」
「そう、それは良かった」
 犬を飼っている。無愛想だけれど、とても賢く従順で可愛らしく、甘いものに目がない犬を。


「今度は何の箱ぶら下げてんだ?」
 いつものように隊室に向かう途中不意に荒船が話し掛けてきた。ボーダー本部、B級の隊室が並べられた廊下に人通りは少ない。俺の手には可愛らしい包装の施されたパステルイエローの箱が握られていた。中身はシュークリーム。彼の好物だ。
「何って、シュークリームだけど」
「お前それ毎日買ってんのか?」
「そうだよ」
 呆れたように、そう表現する他ない顔をして荒船は溜め息を吐く。パステルイエローを珍生物か何かのように訝しげに見る様は中々ミスマッチでおかしかった。おれが笑ってるのに気付くと露骨に嫌な顔をする。そして小さく呟いた。
「餌付けかよ……」
 それはほんの小さな声だったけれど、やけにハッキリと俺の耳に届く。ふふふ。何だか嬉しくなってしまって思わず声が漏れた。荒船が訝しげな視線そのままに箱から俺へ目線を移す。いわゆるドン引きという顔だった。でもまあ、そんなことを気にするおれなんてどこにもいないわけで。
「羨ましいでしょ?」
「全っ然」
 勝手に青ざめてる荒船を置き去りにして足取り軽く歩き出す。別に急ぐ必要もないのに早足になるのもいつものことだった。だって今日も、可愛い可愛い後輩がおれを待っているのだから。


∴いっぱいたべるキミがすき


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