世界に絶望したのはいつのことだっけか。

 平日昼過ぎ部屋の隅、いつもの定位置にうずくまりながら一松はぼんやりと思案した。外は生憎の雨模様。おかげで猫に会いに行くことも猫が会いに来てくれることもかなわない。室内はただ一人を除き同じように外出を面倒臭がったニート達で溢れており、目障り耳障りな兄弟共をウザったいと思いつつ、その気持ちを言動に移す気力もない倦怠感に支配された体はぐずついた天気に比例するようにぐずついた思考を巡らせる。一松にとってそれはよくあることだった。生きる気力はないが、死ぬ勇気もない。それが自分自身についての見解であり、他の兄弟も概ねそのように一松を扱った。クソみたいな世界でクソみたいに何もしないでクソみたいに生きている。それが一松である、と。
「ただいマーッスル!!!」
 扉を隔てているにも関わらず鼓膜をビリビリと震わす素っ頓狂な大声によって一松の思考は一時的に遮断された。チョロ松とトド松が小言を交えながら玄関の方へ駆けていく。「一松は行かなくていーの?」二人の背中を見送った後、おそ松はなんてことないように一松に問いかけた。面倒臭いから行かない、その言葉を口にすることすら面倒臭くって、首を小さく横に振って返答の代わりにする。「そっか」おそ松はその返事に満足したように再び窓の外を見つめた。窓ガラスに大粒の雨がぶつかって世界が歪んでいる。バタバタと忙しなく階段を駆け上がる音、ザーザーと打ち付ける雨の音、騒音。壁を隔てて隔絶された賑やかな世界が確実に近づいてくるのを感じながら、ふと、昔のことを思い出す。

 昔、それはもう何年も前の話。一松は俗に言う良い子だった。もちろん六つ子と一緒に馬鹿をやることもたくさんあったが、大体のことは幼い子供の悪ふざけで済まされるものだった。やんちゃで、よく怒られていたおそ松やチョロ松とは対照的に、一松はよく褒められる子供だった。『一松くんは良い子ね』そう言って大人は一松の頭を撫でた。それが嬉しくって。自分は良い子でいよう、偉い子でいようと幼心に誓ったものだった。
 一松の側には一人の弟がいた。弟とはいっても同い年な上、一松の方が産まれた順番が一つ早かっただけの話だが、一松はその弟を、十四松を、たいそう可愛がった。泣き虫で内気な十四松の面倒を見ることが一松を良い子たらしめる最大の要因なのだと聡い彼は気付いていた。弟のそばにいれば、十四松の面倒を見ていれば、周りは自分を褒めてくれるのだと盲目に信じていた。

「みんないるーーー!?」
 立て付けを心配したくなるほどの大きな音を立てて襖が開かれる。黄色のパーカーに短パン、いつもの格好に身を包んだ十四松がそこに立っていた。大方この雨の中で野球でもしてきたのだろう。濡れた頭を犬のようにブルブルと震わせるものだからこっちにまで雫が飛んでくる。十四松にとって悪天候など些細な問題に過ぎないのだった。
「十四松、チョロ松とトド松はどうしたんだ?」
 手鏡から顔を上げたカラ松が問いかける。十四松はうーんと首を折れるんじゃないかというほどに傾げた、と思ったら今度は唐突に頭を上げてピシッと敬礼のようなポーズをとった。いつだってこの弟の行動は奇想天外だ。
「伝言!伝言を授かってきたのであります!」
「伝言って?」
「ご近所さんから貰った梨を剥いたとのことです!チョロ松兄さんとトド松はもうムシャムシャしてるのであります!」
「ハァ?マジかよ、あいつらばっかずりーぞ!」
 梨、その言葉に上の二人はすっ飛ぶように駆けて行く。一松はその後ろ姿を追いかけようとはしなかった。もう一ミリも動きたくなかった。部屋には一松と、そんな一松を不思議そうに覗く十四松だけが取り残される。人が減ったせいか耳障りな雨音が余計にうるさくなった、ような気がした。
「一松兄さんは行かなくていいの?」
 眩しい黄色が眼前を埋め尽くす。眩しくて、目が眩みそうで、急に逃げ出したくなって、目を閉じて膝に顔を埋めた。
「別に……」
「えーなんでー?梨だよー?兄さん好きでしょー?」
「うるさい。どっか行って」
 嫌なことばかり思い出す。もう無邪気ではいられないのだと悟ったあの頃、自分を良い子だと褒めてくれた大人の手が本当は醜く汚いものだと気づいた。この世界に満ちているのは明るい希望と暖かい優しさなんかじゃなくって、醜い欺瞞と汚らしい欲望だって知った時、一松は自分が立っていた足場がガラガラと音を立てて崩れていくのをただ呆然と見やることしかできなかった。そうして立っていることもままならない瓦礫の上で一人さめざめと泣いた。
 大人は自分を褒めなくなった。周りは自分を指差すようになった。取り残されたのは世界に絶望した自分と、弟一人。
 顔を上げる。目の前には自分そっくりの顔。世界に取り残された二人ぼっち、そこそこに広い部屋の隅、身を寄せ合うようにうずくまっている。
「……早く行きなよ。食いっぱぐれるよ」
 十四松が来てからどれだけの時間が経ったかなんて、時計を見る習慣のない一松には分からない。もしかしたらまだたくさん残っているかもしれないし、全て食べ尽くされた後かもしれない。あの兄弟達のことだから二人の分を残してくれるだなんて期待はするだけ無駄だった。早くしなよ。二度目の問いかけ。眩しい黄色は目に痛い。
「いいよ。一松兄さんが行かないなら、ぼくも行かない」
 急に視界が暗くなった。抱きしめられているのだと気づくのに数秒。耳も塞がれて、耳障りな雨音さえ聞こえなくなる。何も見えない、聞こえない。なのにどうしようもなく暖かくって、泣き出してしまわぬよう十四松にすがりついた。
「よしよーし、大丈夫大丈夫。一松兄さんは良い子だよー。みんなは気づいてないかもだけど、ぼくはちゃあんと知ってるからね!」
 まるで赤子をあやすように十四松は一松の頭を撫でた。それは昔大人が一松の頭を撫でたのとよく似ていたけれど、十四松の手は汚れてなんかいなかった。世界に絶望したあの日、こうやって部屋の隅にうずくまって一人泣いていた時と同じように、十四松は一松に言葉を投げかける。良い子良い子、大丈夫、ぼくがずっと側にいてあげる。一松と一緒に世界から取り残されようと決めた時からこれは自分の役目なのだと半ば義務のように感じていた。一松が少しでも辛くないように、自分はずっと側にいてあげようと。たとえそれで自分まで指差されるようになろうとも。
「どう?もうだいじょぶそう?」
「……うん。ありがと」
「これぐらいお安いご用でっせー」
 えへへとすっかり板についた笑顔で十四松は笑う。やっぱりその笑顔は眩しかったけれど、もう逃げ出したくなることはなかった。相変わらず雨音はうるさいし、いつまでもこの世界は糞みたいに生き辛い。でもまあ、もう少しくらいなら、頑張って生きてみてもいいか。なんて思ったり。
 重たい腰をあげる。久々に伸ばした膝がバキバキと音を立てた。
「めっちゃスゲー音!一松兄さんじじいみたい!」
「早く下行こう。梨、食いっぱぐれるよ」
「まだ残ってるかなぁ。残ってるといいなぁ」
「どうだろうね。もうすっからかんなんじゃない?」
「!!!」
「冗談」
 そう言っていたずらっぽく笑ってみせる。そういえば、笑ったのなんて久々かもしれない。そんなこと思っていたら再び鼓膜がはち切れそうな音を立てて襖が開く。うるさいよ十四松!下の階から怒号が飛んできた。そんな声はどこ吹く風、十四松はくるりと首を回して一松に向かい合う。行こ?一松兄さん。その声は昔一松が十四松を連れ出す時の声音によく似ていたけれど、二人がそんなことに気づくはずもなく。
「うん。行こうか」
 増して、そう頷いた一松の表情が限りない慈愛に満ちていたことなど本人は知る由もないのだった。


∴二人ぼっち世界


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