無知とは、すなわち幸福ということだ。
「久しぶりだね」
軽く手を振ると相手方はキョトンと目を丸くする。そしてぐるりと辺りを見渡して、声を掛けられたのが自分だと認識するや否や露骨に顔を歪めた。隊長のせいだろうか、相変わらずこの部隊の人間は感情を隠すということを知らない。
「……何か用ですか」
「いや。何となく目に入ったから」
そう答えれば、眉間に走る縦の皺が余計に色濃くなる。早くどっか行け。そんな顔だ。
そんな声に出されない意思には逆らって、立ち話もなんだしと強引に彼を自販機の横の椅子に座らせる。こういう時、年上であることは有利だ。ハイ、奢り。そう言って有無を言わせず冷えたジュース缶を差し出せば相手はおれに従わざるを得ない。
同い年のチームメイトが可愛がっていた後輩は、恐る恐るというように手を伸ばしてジュース缶を受け取った。そんな慎重にならずとも毒なんて入っていないのに。だって毒を入れるとしたら君の方なのだから。
「どう?順調?」
「……何がですか」
「うーん何だろ、色々と?」
俺の不明瞭な質問に、彼ははぁと溜め息をついたっきり何も話そうとしなかった。目線は頑なに下に向けられ、目を合わそうともしてくれない。どうやらおれが飽きるまで黙秘を貫き通す所存らしい。そういえば、アイツにも困ったことがあれば曖昧に笑って場をやり過ごそうとする悪癖があった。似た者同士というか、仲良し師弟というべきか。それとも彼がアイツに似てしまったのだろうか。その答えを知ろうと思っても、おれはアイツと出会う前の彼を知らないのだから意味をなさない。それを聞く相手も、もうどこにもいなくなってしまった。
「会えなくて寂しい?」
不意に顔がこちらを向く。見開かれた瞳をわなわなと震わせ、何かを叫ぼうとするように口が大きく開かれ、言葉にならずにゆっくりと閉じた。久方ぶりに目が合った彼は今にも泣きそうな顔をしていた。そんな顔をしていたら、折角飲み込んだ言葉だって筒抜けだ。
「……それをあんたに話す義理はないよ」
「そっか」
彼はきっと、まだ信じているのだ。この町でいつかまたアイツと出会えることを。偶然にしろ故意にしろ、アイツがまた笑顔で「ユズル」と呼び掛けてくれることを。
無知とは、すなわち幸福ということだ。彼は知らない。アイツがもうこの町はおろか、地球上のどこを探しても見つからないということを。もう二度と出会うことなんてないだろうということを。知らないから、あんな悲しそうな顔が出来る。おれだって永遠を刹那だと勘違いできたらどんなに幸せだったことか。
「君は鳩原ちゃんによく似てるね、ユズルくん」
その時、彼が一瞬嬉しそうに笑ったのをおれは一生忘れはしないのだろう。それと同時に、彼を心の底から可哀想だなと思う。所詮、捨てられたことを知らない子犬が親の帰りを待ちながら尻尾を振ったところで誰も助けてあげられやしないのだ。
∴無知