頭が痛い、体がだるい、目眩に、軽い吐き気。濡れた制服の裾が気持ち悪くて無意味に足をバタつかせても何一つ良くなることなんてなくって、柄にもなく舌打ちを一つ。その音を拾ったのか否か、二宮さんと一瞬だけ目が合ったような気がして、離れた。
五月下旬、もうすぐ梅雨になろうとする季節の変わり目は気圧と共に俺の気分さえも急降下させ、灰色にぐずついた空は体調さえも圧迫する。暗い天気は暗い思考を加速させ、傘をさしているにも関わらず体を濡らす雨はあの日を連想させた。全てが悪循環。苛立つ気持ちを押さえつけるようにコーヒーを流し込んでみても所詮は焼け石に水だ。
「ねえ二宮さん、」
ろくに頭も回せやしないのに口ばかりくるくるとよく回る。分別の付かない子供の好奇心、あるいは夢遊病者の戯言か。吐き出す言葉に重さなんてこれっぽっちも無いくせして、その実鋭利な刃物のように胸中を突くのだ。責任なんてとれないくせに。
「鳩原ちゃんとどこまでいったんですか?」
「……どういう意味だ」
「どうもこうもそのままですよ」
「どこにも出掛けてない、あんな奴とは」
そういう意味で聞いたのではないのだけれど。少し天然の入った回答も普段なら微笑ましく受け流せるのに、今日ばかりはそれが出来ない。濡れた裾を引きずって二宮さんの前に立つ。生乾きの靴下が不快だった。椅子に座る二宮さんが訝しげに顔を上げる。頭痛、目眩、吐き気、アイツの顔。それらがない交ぜになっておれを拘束する。全てはこんな天気が悪い。
「アイツのこと、好きだったんでしょう?」
何かしらの意図があった訳ではないのだ。苦虫を噛み潰したように歪んだ顔を見たかった訳でも、脳裏にこびりつくアイツの作り笑いを忘れたかった訳でも、そんなものにしがみつこうとする己を嘲笑いたい訳でも。
「アイツももったいないことしますよね」
「…………」
「おれ、他人の色恋沙汰には敏感なんですよ」
「……何が言いたい」
「悔しいと思いました?怒りました?嫉妬しました?知らない男と逃げられて」
目眩。胸ぐらを捕まれたのだと気づくのに数秒。この人もこんな顔出来るんだ、なんて、状況を理解しようとしない脳ミソは呑気に考える。必死すぎていっそ哀れになるような、同情という名の微笑みを投げ掛けてあげたくなるような、そんな顔。たかだか一人の人間が消えたくらいで死にそうになる可哀想な人。
だからおれはそんな彼に優しく笑いかけてあげようとして、できなかった。
「俺は思いましたよ。クソ野郎がって」
上がらない口角を誤魔化したくて目の前の唇にキスをする。そんな自分が死ぬほど惨めで、ようやくへらりと笑えた、ような気がした。
「ねえ二宮さん、こんな日ってすごいイライラしません?雨降ってて、ジメジメしてて、嫌なことばっか思い出すし」
「お前の感情に俺を巻き込むな」
「残念、二宮さんなら分かってくれると思ったんですけど」
だっておれたち、似た者同士でしょう?暗に含ませた言葉は伝わっただろうか。でもこの人のことだからアイツのことで頭がいっぱいいっぱいでおれのことなんて毛ほどにも気に掛けていないのかもしれない。かくいうおれも脳裏を埋め尽くす笑顔をただ呆然と見やることしかできないのだから。
力任せに除湿しているにも関わらずじとりと汗が滲む室内が心地悪かった。目の前の憂鬱な顔も、己の陰惨な心象も、アイツに関わる淡々とした事実も、何もかもが不快でたまらない。最悪だった。聴こえないはずの雨音は今しばらく止みそうにない。
∴low pressure system