「美味しいんですか」
 まるで右手が異次元にでも切り飛ばされたような心地がした。扇情的なほどに赤い舌が指と指の隙間を縫うようにして這っている。器用だな、なんて、場違いな感想。
「んー、どうだろ。食べてみれば?」
「どこの世界に自分の手を食べる変態がいると思ってるんですか」
「ここに?」
「殴りますよ」
 顔の前で右手を拳状にすれば先輩は宇宙人にでも会ったみたいな大仰な反応をする。撃たれるわけでもないのに両手を上げてゲラゲラと笑う声がうるさかったから左手で軽く叩いてやった。右手は、唾液で濡れた指が擦れるのが気持ち悪かったから使えなかった。何度眺めても、とてもじゃないが美味しそうにはもちろん見えなければ、食するに耐えうる味をしているのかも怪しいくらいだ。けれど先輩はひとしきり笑った後、俺の右手に口付けて、器用にも舌で固く結んだ指を解いていく。その時あまりにも美味しそうにうっとりと目を細めるものだから、俺は一瞬目を奪われてしまった。感触としては最悪だ。ただ、先輩のことを突き放す気にはなれなかった。
 ようやく露になった手の平をきつく吸い上げてニタニタと笑う。「変態。」短く罵ってやった。
「おれはさ、お前は結構美味しい方だと思うよ」
「人間食べたことあるんですか?」
「ないよ、まだ」
 こういうことを平気で言う。どこまでが本気なのか。いや、こんなこと本気であるはずがないのに、どうしてか否定しきれない。
 犬が飼い主とじゃれ合うみたいに先輩が俺に馬乗りになる。先輩の無駄に高い体温と冷たい床が対照的だった。
「トリオン体ってさ、」
 開いた口の中がよく見えた。赤い舌と白い歯のコントラストが目に痛い。その奥の、影になってよく見えないところ、あそこは一体どうなっているのだろう。覗いてみたい、触れてみたい、暴いてやりたいと、思う。
「美味しいのかな?」
「不味いと思いますよ」
「でもおれ、多分味音痴って奴だから」
 お前もそう思うでしょ?言いながら、答える暇もなく口付けられた。お互いの唾液が混ざり合う淫靡な水音が聞こえる。先輩の口の奥の、あの暗闇に触れたいと思って懸命に舌を伸ばしても、真っ赤な舌に遮られてしまう。先輩は無味だった。先輩にとって俺の舌は、指は、肉は、最高のディナーと成り得るのだろうか。
「今度さ、お前のこと、食べていいかな」
「……」
「きっとお前ならトリオン体でもそこそこだと思うんだよね」
 心の底から嬉しそうに先輩は言う。キスの余韻を引きずる銀の糸が餌を待つ犬が涎を垂らす様に酷似していて、俺は多分、微かに笑った。それをOKサインと勘違いした先輩が目を爛々と輝かせる。それこそ犬のように。


∴悪食


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