∴錆び付いた叫び声がただ耳から離れなかった
※微グロ注意。
それは言葉とも呼べないような儚さだった。口から漏れたことにより生を受けたそれは、空間を敷き詰める窒素と酸素の分子の隙間に押し潰されるようにして呆気なくその生涯を閉じてゆく。もう世界中、どこを探しても見つけることなどできやしない。だから、だ。たまたま窒素と酸素を通り抜けた先が俺の耳であったということはおそらく何億分の1とかいう奇跡であって、そしてそんな奇跡を偶然と片付けてしまうのは味気ないので、つまり何が言いたいのかというとこれは俺の耳に届くべく放たれた言葉だったのではないかということだ。
「珍しいっすね、カノが弱音吐くの」
「やだなぁ、聞こえてたの?」
「たまたま耳に入っちゃったんすよ」
へにゃり、崩れるような笑みは普段の芝居がかったそれとは違って今すぐにでも消えていきそうな雰囲気を湛えていた。まだ細々とした煙を上げる小ぶりな拳銃を柔らかく両手の上に乗せて、カノはその銃を見るようにして下を見遣った。そこには一人の成人男性が仰向けで横たわっている。思ったよりも出血量は少ないけれど、開いた瞳孔はその男がすでに屍に過ぎないことを示していた。先程的確に男の心臓を撃ち抜いた地面を転げる一つの弾丸だけが、この空間の中で唯一自立運動を行っている。
しばらくぼーっとしながら二人突っ立っていたのだけれど、それを破るようにカノはおもむろに右足を上げると穴が空いた男の心臓の辺りを踏み潰した。メキメキと肋骨が折れる音がして、血が噴き出すように溢れ出る。まだまだ明るい赤色を辺り一面に撒き散らしながら、それでも男はぴくりともしない。片足から両足へ。歩いたり、ジャンプしたり。バシャバシャと液体の上を跳ねる姿は、色は違うにせよプールの中で跳び回る幼児を彷彿とさせる。ただし当の本人は笑うでもなく泣くでもなく、ただ能面のような無表情でジャンプを繰り返しているものだから些か不気味であるのは確かなことだった。
カノが仕上げとばかりに最後に男の頭蓋を踏み潰す。パキッて、明るいくせして不穏な音を鳴らしてひしゃげた頭蓋から目を背けるようにこちらに向き直り、カノは笑った。眉が垂れ下がっていて、不自然に口元が片寄っている、やはりいびつな笑みだった。そして血に塗れた靴を脱ぎ、いつの間にか落としていた銃を拾い上げると、何事も無かったかのように「さ、行こっか」と俺を促す。
「これ、後処理大変じゃないっすか?」
「いいのいいの。どーせ上手くやってくれるんでしょ」
「そりゃそーっすけど‥‥‥」
きっと明日には新聞の一面に名前が掲載されるであろう某政治家の真っ赤な亡きがらはすでにカノにとっては興味の外であった。「今日はえーっと、そうだ、ハンバーグ食べたい」「キドが今日は魚だって言ってたっすよ」「うそっ」日常にありふれた会話をしてみればさっきまでの殺伐な空気なんて嘘みたいにどこかへ霧散して行って、残った俺とカノの二人っきりで捕らぬ狸の皮算用な夕飯の話をする気の抜けた声だけが空間をふよふよとさまよっている。名前しか知らない政治家も、この惨状だときっとあの世でビックリしていることだろう。
いつも通りの風景だった。
そうやって、不安も恐怖も狂気も後悔も追悼すらもひた隠しに帰路を歩む姿を見ながら、そっと、カノの細い首をかっ切ってやりたいと思った。辛いのなら、死ねばいい。それは人殺したる自分故の思考だろうか。
「‥‥‥ねぇカノ、」
「僕は平気だよ」
「そうじゃな、」
「大丈夫だから、安心して」
「‥‥っ、話聞けよ!」
「うるさいっ!」
その声は路上で叫ぶには些か大きくて、買い物帰りの主婦、公園で遊ぶ子供達、すれ違う人皆の視線を一同に集めた。でもそれも少しの間だけで、ただの痴話喧嘩だとでも思ったんだろう。人々はまた、なんてことはないように流れて行く。唯一コチラに顔を向けたままだった子供達も、しばらくすれば飽きたようにまた遊び始める。
いつも通りの、平和な空間。
のはずなのに。
「何隠してるんすか」
「何も」
「忘れたんすか?俺の能力。カノがどんなに欺こうが、俺には筒抜けなんすよ?」
「何充血したみたいに赤くさせてんの。嫌いだとか言ってたじゃん」
「えぇ、嫌いっすよ。今みたいに、全部全部わかっちゃうんすから」
俺だって、好きでこんなもの見てる訳じゃないんすよ。ぐちゃりと極彩色が互いが互いを殺すように黒々と渦巻く世界。押し潰し押し潰し切り裂いて、赤く染まることもできず潰れていく何かはさっきのひしゃげた頭蓋を想像させて、喉に汚物がせり上がってくる。ここが路上じゃなかったら吐いてしまいたかった。全部全部、しがらみも何もかも、すべてを吐き出して欲しかった。
『ごめんなさい』
そんな優しいこと考えてる暇があったら、俺が、殺してあげる。
title:へそ