∴抱擁で迎え入れて
ごぽり、水の中にゆっくりとゆっくりと沈んでいくような。冷たい何かが肌を撫でて、そして纏わり付く。四肢を搦め捕られる。ぎちり、ぎゅう。まるで逃しはしないとでも言いたげに。そんなことをしなくったって、僕に逃げる気はないというのに。
「溺れる」じゃなくて「沈む」と形容した理由は、別に苦しくはないからだ。だから「逃げる」という思考は働かない。浮力よりも重力に加勢をするように僕の体はゆっくり沈む。「逃げる」イコール「浮かぶ」なのかは僕自身もよくわかっていないのだけれど。
とても非現実的なのは、恐らくはこれが夢だからだろう。稀にこんなことが起こるのだと、人づてに聞いたことがある。なるほど、確かに。不思議で不思議で仕方がないのだけれど不安はなかった。変な感覚だ。
周りを揺らぐ透明な雫は、その膨大な量のために捉らえることは不可能だった。手をお椀のように丸めても、さて、そこに水は貯まっているのかいないのか。水を撫でている感覚はあるけれど、目に見えているのは空っぽのお椀だけ。触覚と視覚がそれぞれに別々の情報を伝えてくるものだから一体何が正しいのか、判断をつけかねる。それもつかの間。どうでもいい。一旦思考を手放してしまえば、それは漂う波に攫われてしまった。特に名残惜しいこともないので放っておくことにする。
沈む、日の光を反射しながら遠ざかっていく水面を仰ぎながら、そこに揺れる視界を写しながら。空気を吐き出すこともしないで、密閉された水中空間。漂うにはやっぱり重力が邪魔だった。沈んでいく、搦め捕られたまま。沈む、沈む、沈む‥‥‥‥‥‥
「‥‥‥何してるの、兄さん」
「ばれたか」
背中が熱い。多分兄さんは僕の後頭部でも見ながらしてやったりな顔でも浮かべているのだろう。幸か不幸か、僕達は双子だった。それくらいは直接見なくったってわかる。
ぎちり、ぎゅう。細腕に見合わない怪力が、僕のことを逃がしはさせない、と、いまだに僕を縛り付け、否、抱きしめていた。呆れた兄貴だ。「溜め息をつくと幸せが逃げるんだぜ?」「余計なお世話だよ」からかうような口調をあえて切り捨ててやれば何が楽しいのかくつくつと笑い声。たかが数時間早く生まれただけで年上ぶる癖は何時になったら治してくれるのやら。
「そろそろ離してくれないかな」
「えぇー?どーしよーかなー?」
「からかわないでくれ」
きっとニタニタ笑っているであろう、相変わらずの口調に嫌気すら差してくる。「兄さん、」少し強めの語調で吐き出せば、そんなピリピリするなよって能天気窮まりない返事が返ってきた。一体誰のせいだ、誰の。僕の不満を感じ取ったのだろうか、「しょーがねぇなぁ」と、やっぱり勿体振ったセリフと共にさっきまでの拘束は一体何だったんだと言うくらいには呆気なく兄の腕が僕を離れていった。それはそれでどうも味気無い。‥‥‥気がする。
「‥‥‥ともかく、寝込みを襲うだなんて聞いてないよ」
「言ったら承諾してくれたのか?」
「それとこれとは別問題だ」
「ほらみろ」
体を捩って、正面から見据えた兄はとても自分とは似つかない。もしかして、あまりにも二人は近すぎたからその反動がこの極端な相違に現れてしまったのだろうか。
コチラを向く兄さんの澄んだ青は水を思わせた。清らかでおおらかな、どちらかと言えば海水よりも淡水に近い。頼りきってしまうにはそこはあまりにも狭いけれど、そこにしか住むことができない魚のように、自分もまた、泥へと沈んでいくのだろう。一緒に、と思うのはエゴか。
「‥‥‥兄さん、」
「んー?なんだ雪男ー?」
「これからも、ずっと僕達は一緒なんだよね」
我ながら随分幼稚な発言だった。キョトンとした兄さんが瞬きを二回、そのあと勿体振るように大きく息する。だから兄貴ぶるのはやめて欲しいんだって。
「あったりまえだろうが!」
title:へそ