∴浸水、漂着



自分の薄汚れたサイフ、それを見下ろして桜井は苦笑した。その中から小銭を一掴み取り出して順々に投入口へと押し込む。赤く光る『売り切れ』の文字、それに仕方ないと呟いてすぐ隣のジュースのボタンを押した。もう一度、まったく同じ動作を繰り返す。

昔からよくあることだった。腕の中にあるペットボトルの液体が勝手気ままに揺れる様を感じながら再び苦笑を浮かべる。教室の扉を開けて、あまりガラが良いとは言えない四人組一人一人にペットボトルを手渡す。周りの女の子達が囁くのが聞こえた。

「オイ、これ頼んでたヤツと違えじゃねえか」
「すいません、売り切れてて‥‥‥」
「はあ?何ソレ言い訳かよ。ホント使えない奴だな」
「ごめんなさい、すいません」

『ねえ、また桜井くんパシられてるよ』
『本当、可哀相だよね』

『つーか桜井って弱くね?すぐ謝るし』
『どーでもいいじゃん、俺達には関係ないことだしな』

ヒソヒソ、ケラケラ。自分の周りに人はいない。それなのにジトッと纏わり付く嘲笑と悪寒には毎回のことながら辟易していた。それでも慣れたものなのだ。意識をすぅっと自分の中へと消していく。

「‥‥っオイ、聞いてるんか?」
「聞いてます、すいません!」
「とりあえずコレいらねーから捨てとけよ、この役立つが」
「すいません、すいません‥‥‥」

四人が立ち上がったのに合わせて周りの人だかりが開けていく。桜井は一人、ペットボトル達と共に取り残された。その内のペットボトルを一つ取って口付ける。炭酸が舌を焦がした。

(部活で飲むしかないかな、)

再びペットボトルを抱えた桜井は、開けたままの人だかりを抜けて体育館があるはずの敷地の西側へと移動することにした。500ミリリットルのペットボトル4本という重量的に苦痛を与えるようにか思えない余計な荷物に嘲笑われているようで自然と足が早まる。大きく溜め息を吐いた彼は弱い自分を顧みた。それ程大きくない掌はボールを掴むことに精一杯で勇気も強さもこれっぽっちも掴んでくれない。それにたいしてしょうがないと息を吐くのはもう飽きたことだった。



「桜井それどうしたんだ?」

時間が早いから、と誰もいないと思って開けた部室には先客がいた。若松サン、と呟いたきり黙ってしまった自分に訝し気な目線が当てられる。いたたまれなくなって慌てて自分のロッカーを開いて荷物を押し込めた。こういう時は自分の几帳面な性格も役に立つものだと、ガラリとして整然としているロッカーを見ながら思う。

「‥‥‥友達がいらないって言ったんでもらったんです」

嘘はついていない。桜井の言い訳を聞いた若松はそうか、とさして気にしていない風に目線を外した。内心でホッと息をつく。

よし、部活に集中しよう。理由はどうであれ練習までには大分時間が余っている。ストレッチして、軽くランニングして、そしたらシュート練習。頭の中で自主練の構想を思い浮かべていたら、不意に腕が伸びてきた。それが自分を通り過ぎてペットボトルを掴み攫っていく。

「数いっぱいあるみたいだから一本くれないか?」

突然人の物をとったくせにちゃんと承諾を求めてくるあたり、彼の微妙に生真面目な所が露出していると思う。少し戸惑いながらもいいですよ、と許可を出すとすぐにペットボトルのキャップを捻ろうとするのだが力を加えることなく開いたそれに少し驚きの表情が見えた。その中の液体が少しだけ減っているにを見て、さっき自分が一口飲んだやつだと気づく。

「それボクが飲んだやつなので交換しましょうか‥‥‥?」
「別にいーよ、味変わんねえだろ」

不快に思われたりしないだろうかと心配をする桜井を余所にごくりと喉を鳴らした若松は「げ、コレ炭酸かよ!?」と至極当たり前の感想を漏らした。それなりに有名な飲料なのにラベルを見て気づかなかったのだろうか。自分の心配は何処へやら、桜井は可笑しくなって思わず吹き出した。

「‥‥‥何笑ってんだよ」
「すいません、可笑しくて‥‥‥」
「炭酸はあんま得意じゃねえんだよ」

まさか若松さんの苦手な物をこんな形で知るとは思いもよらなかった。少しだけ気分が軽くなった気がする。もう一度、ギャップが開いたままのペットボトルに口づけた。ピリピリする炭酸もだいぶ可愛く思えてくるから不思議だ。

「オイ桜井、練習付き合え。どうせ暇だろ」

照れ隠しだろうか、そっぽをむいたままの若松にそう声をかけられた。微笑ましい光景に自然と頬が緩む。炭酸買わされて良かったかもしれないと考えが過ぎる。そう、心配したってしょうがないのだ。結局自分に勇気が宿ることはないのかもしれない。小さい頃に憧れたヒーローになることはできないって、そんなこと誰もが知っている。でも悲観して諦めるんじゃなくて、受け入れて楽しんでしまえ。

「オイ、早くしろ!」

そんなことを目の前の先輩を見ながら思ったのだった。



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