∴雨音みたいな幸福
世界が滲んでいた。眼下のネオンが窓の水滴いっぱいいっぱいに広がって必死に光を放つ。成虫になった蛍は一体何日生きられるんだっけか。そんなことが脳裏を掠めた。
「どうした、カイト」
いつの間にか右手にコーヒーカップを持ったクリスが隣にいた。空いている方の手で俺の頬を撫でてくるのがくすぐったい。その手がひやりとしているのは気温のせいだろうか。空調の効いた室内と言えど、今日のように雨が降った日はいつもより多くの冷気をはらんでいるような気がした。
「なんでもない。ただ、雨が降っていると思っただけだ」
正直に言えば雨はあまり好きではない。空から降り注ぐ雫が地を打ちつける音は俺に嫌なことをよく思い出させた。そう、たとえば、今俺の隣でコーヒーカップを握るその人が居なくなってしまうだとか。
「あの日も雨が降っていたな」
恐らく同じ記憶にたどり着いたのだろうクリスが俺の頬に手を寄せるのをやめた。見上げた顔は影が重なってよく見えない。あの日もそうだった。あのよく見えなかったはずの顔がどうしてか俺を否定していたような気がして、俺は気がついたら泣いていた。両目が滲んでもう何もかもがあやふやだった。涙なのか雨なのか、ぐちゃぐちゃのない交ぜになったよくわからない液体が頬を流れていく。あれは今までの何よりも冷たかった。よく覚えている、鮮明過ぎるほどに。
「‥‥‥そうだな」
「恨んでいるか?私を」
もう一度見上げた顔は真っ直ぐに俺を見ていた。笑うでもなく、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただただ真っ直ぐに俺だけを見ていた。その綺麗な青色に閉じ込められた俺は窓の水滴の中のネオンのように輝いていられるだろうか。そうであれたら、嬉しいと思う。
「‥‥‥恨んでない、と言えば嘘になる」
「だろうな」
「でも、」
今度は俺がクリスを見つめる番だった。俺の両目に映るクリスはキラキラお輝いていて、きっとこれからも、ずっと、輝くのだろう。俺が死ぬまで、俺が彼を思い出せなくなるまで、永遠に。
「でも俺は貴方と出会えて良かったと思う。もちろんそれを酷く後悔したり、悲しくて泣きじゃくったことだってあった。でも俺は貴方に出会い、別れ、涙を流したり、笑いあったりしたことを嘘にしたくない。クリス、俺は、貴方のことが、」
その言葉の先はクリスに飲み込まれてしまった。一つに重なった唇が暖かい。あの日何よりも願った物がここにあった。
「私もだ、カイト」
「‥‥‥はい」
あの日よく見えなかった顔がすぐ目の前にあった。多分これからも、雨が降ったら思い出す。でもそれを一人で涙を流した思い出じゃなくて、二人で笑いあった思い出にできたらいいなと思う。今日がその、第一歩だ。
title:白猫と珈琲