∴氷漬け
真冬の海にでも放り込まれたみたいだった。全身が引きちぎられるような痛みに叫び声を上げてみても、空気に触れることすらかなわず気泡となって消えていく。青い青い世界は青いお前を隠してしまうから、俺はいつも以上に目を凝らさなければならなかった。そうしてようやく捉えた輪郭も直ぐに朧気な泡となってしまうんだから酷いもんだ。そして俺はまた沈むのである。底を覗けば、深淵が俺を飲み込むように大口を開けていた。
「凌牙」
「なんだ」
「ん、なんでもねえ」
俺の返答に彼は不機嫌を隠そうともせず、あからさまに眉を吊り上げた。そんなに怒る必要も無いだろうに。そうやって口にすれば彼がますます不機嫌になるのは目に見えていたので、代わりにこれまで幾人の女性を落としてきたのかも知れない最高の笑顔を彼に向けてあげれば「きめぇ」とただ一言それだけを呟いた。やはり彼はそこら辺の女性とは違って一筋縄ではいかないらしい。それに満足した俺は温もりの残るシーツと布団とに惜しみながらも別れを告げ、部屋の電気をつけるために立ち上がった。時刻はすでに真昼に近い数字を示しているが、生憎カーテンを大っぴらに開けることができるような室内の状況ではないのだ。体が怠いのは確実に昨日の情事のせいであったが、誘ったのは自分の方なので自業自得という言葉の方が似合うのだろう。
「‥‥‥何が目的だ」
「目的?何の?」
「はぐらかすんじゃねえよ。一体何の目的で俺を連れ込んだ」
「さあ、なんでだろうな」
「クズが‥‥‥」
クズ。まあなかなか俺に見合った言葉のような気がするけれど、こればっかりは俺にもよくわからないのだから仕方ない。愛に飢えていた訳じゃない。そんなもの財力とルックスで簡単に手に入る世の中だ。それじゃあなんでこんなことをしたのか。凌牙のことが好きだから?何か違う気がする。そう、何か。その決定的な何かを俺は掴みあぐねている。きっとそれが全ての原因だろう。凌牙の不機嫌も、俺の怠い体も、このどうしようもない空しさも。それらを引き換えにして得た激痛の中に答えがあるのだとして、それを探すのは骨が折れそうだった。ならばいっそのこと知らないままの方がいいのだろう。疲れるのはもう嫌だった。
「探したいなら好きにしろ」
「はあ?何をだよ」
「気にするな、ただの戯れ言だ」
底を覗けば、深淵が俺を飲み込むように大口を開けている。俺は逆らわずに落ちて行くのだ。それが正しいのかも知らないままに。
title:白猫と珈琲