∴英雄の崩御



行き過ぎた正義感の末路を知っている。

(例えればそれは底無し沼に陥るような。ずぶずぶと体は勝手に沈んで行くのに、誰も己の手を引き上げてくれはしない。もがいて抜け出せなくなって、そして最後に待っているのは、死。)

「ねえ風間さん。これはどういうことなんですか?」

出来るだけ平静を装うと物腰柔らかな口調を絞り出した嵐山の顔には、しかしはっきりとした焦躁と恐怖の汗が滲んでいた。首元にあてがった鈍色が蛍光灯を反射してくすんだ光を放つ。その距離、1センチ。スコーピオンでも弧月でもない、正真正銘の刃の切っ先が嵐山の喉を掠めるようにしてそこに存在していた。握っているのは、俺だ。

「見ればわかるだろう」
「わからないから聞いてるんです。おれ、何かしましたっけ?」
「何もしていないから安心しろ」
「この状況下で安心しろとか、本気にしろ冗談にしろ信じられるはずがないじゃないですか。頭でも狂いました?」
「残念だが、俺は今までにないくらい冷静だ」

普段の快活な様に似合わない、所々にトゲを含んだ言葉に少し、安心する。正義の味方に相応しい赤色のジャージを身に付けていない生身の身体は、トリオン体に慣れた身から見れば酷く脆く儚い物にしか思えなかった。そうやって俺達は錯覚する。テレビの中の正義の味方は燃やされても凍らされても殴られても食われても決して死ぬことなく、激情に身を任せ悪を排除していく。それが俺達の役目だと正義は勘違いする。でもその先に待っているのは英雄の凱旋じゃなかった。無惨に突きつけられた死体は紛れもない俺達の成れ果てで、血痕と腐臭に塗れたそれが自分の未来だと知ったその瞬間、俺の中の正義の味方は瓦礫となって崩れ去る。それは憧れと呼ぶにはあまりにも惨めで醜かった。

「お前は、死ねと言われたら死ねるか?」
「それはどういう‥‥‥」
「死にたくないなら早く答えろ」

刃を見せつけるようにして持ち変える。今、この男の命は俺の手の中にあった。もし俺にその意図がなく、けれど何かの拍子でこの刃が頸動脈を掠めてしまったらそれだけでこの男の未来は跡形もなく消滅するだろう。奇跡と言う名のご都合主義は起こらない。例えこの男がこの地上で最も『正義の味方』に近しい存在だったとしても、だ。

「それはもちろん、死にたくはないですけど‥‥‥」
「そうか。ならいい」

ぎらつく刃をゆっくりと下ろす。安堵が俺を包んでいた。こんなもの気休めにしかならないだろうと誰かが言いそうな気もするが、それで十分だ。下ろした右手に握り締めた鈍色は、腕全体が重石になったかのような重量を俺に伝えてくる。思わず崩れてしまいそうだった。ほら、こんなにも命は軽くて重い。

「でも風間さん。俺は貴方の方が危ないと思いますよ」

声が降ってきた。上を向くのが億劫でその顔は確認出来ないが、おそらく、さっきまでの俺とまったく同じ顔をしているのだろう。指先の力が抜けて、ナイフがからりと音を立てて転げた。もしかしたら床を少し傷付けてしまったかもしれない。だとしたら、申し訳ないことをした。
それでも犠牲は必要だ。誰一人として失うことなく世界を救うだなんて絵空事はもう、テレビの中だけで十分だった。誰もそんな英雄にはなれないし、誰もその英雄を欲してはいけない。

「‥‥‥大丈夫だ。もし、俺が死ぬような時が来れば、その時はお前も人類も、きっとみんな一緒だろう」

颯爽と現れては敵を薙ぎ倒し、民衆を救う正義の味方はどこにもいないのだから。

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