∴入道雲と在りし日の少年少女
「ねぇ、カノにも手伝って欲しいんすけど」
暑い暑い夏の日にようやく秋の香りが仄かにその色を見せる頃、過ぎ去ろうとしているその季節に合わせるように俺達は引っ越しの準備をしている。一体何度繰り返したんだろうという途方もない夏の話は、一部の断編だけを残して何もなかったかのように消えていった。だから俺達は踏み出す必要があったのだ。目の前に広がる新しい世界に飛び込むための一歩を。
「ああ、ごめん。今やるよ」
俺が声を掛けると窓に寄り掛かるようにして外を眺めていたカノが気だるげに視線を室内に移した。大きい荷物は既に業者が運んでしまって、平らな床の上に乱雑に段ボールが散らかってる様はその目にどう映っているのだろうか。無条件にそれを知る術はもう俺には無かったけれど、同じ様にそれを隠す術を無くしていたカノからそれを読み取ることはそれほど難しいことではなかった。
「そういえば、ここら辺の小物ってどうするの?処分?」
「いや、キドが責任もって引き取るって言ってたっす。捨てるに捨てられないからって」
地球儀を段ボールに入れる作業に格闘している俺を見ながら、棚の小物を次々と、少々乱雑に保護用の包装シートにくるんでいたカノの問い掛けに答える。当のカノと言えば「ふーん」と気の抜けた返事をして、硝子細工を包んだ白い包装シートを丸ごと、ごとりと一瞬冷や汗の出そうな音を出して段ボールの中に落とした。そうやってごとり、ごとり、と一つずつ、けれど確実に殺風景になっていく棚は一つずつ俺達の思い出を大気圏に放出しているようで、柄にもなく泣きそうになるのを堪えて地球儀をやっとの思いで物の隙間に詰め込む。丁度俺の頭の中みたいにごちゃごちゃな箱の中はとても窮屈そうで、けれど騒がしくて楽しそうで、少し、羨ましい。
「キドが持ってきたんだから本当は片付けもキドがするべきだと思うんだけどなー」
「そんなこと言ったってキドは今自分の部屋の整理で忙しいんすよ?女の子の部屋は綺麗に見えて物で溢れてるんすから」
「へぇ、じゃあマリーは?」
「みんなのお弁当買ってくるってコンビニ行ったっす。『私だって一人でお買い物できるもん』って」
「小学生じゃないんだから‥‥‥。でもさ、それにしても遅くない?」
「マリー、寄り道癖があるんすよ」
「ああ、誰かさんに似て、ね?」
「何すかその言い方は」
冗談を交えた会話にも哀愁を感じるようになってしまったのは残暑のまやかしだろうか。別に会えなくなる訳じゃない。連絡を取り合う約束はしたし、あの日になったらまたみんなで集まろうねと笑いあったのはまだ鮮明な記憶として残っている。それでも一生でたった一度のこの夏が終わろうとしているのは事実で、炎天下に置いてきたそれこそたくさんの物が秋になれば陽炎のように消えてしまうのではないかという心配は常に俺の中に色濃く貼り付いていた。こういうのを日本語では後ろ髪が引かれると言うのだろうか。髪を引っ張っているのは赤い目の自分か、それとも。
「何感傷に浸ってるの」
むすっとした顔のカノが刺すような目で俺を見下ろす。あの少しばかり胡散臭い笑顔はどこへやら、ここのところカノはずっとこうやってぶすくれた顔をしていた。例えるなら駄々っ子というのがぴったりだろう。
「俺がいつ感傷に浸ろうが、それは俺の勝手じゃないすか。それにカノだって、寂しいんすよね?」
「‥‥‥別に」
「ふーん?」
「何、その生返事は」
ぐちゃぐちゃに絡まって、もがいてももがいても抜け出せないんじゃないかとすら思った俺達の糸は、もう絡むことなく各々の方向で伸びていた。もしかしたら途中で交わるのかもしれないし、そのまま一生平行移動を続けるのかもしれない。それはもう誰にもわからない。わからないから、大切にしたかった。それはきっと、みんなも同じこと。
「さて、と。片付けも終わったし、マリーを迎えに行くとしますか」
「宛てはあるの?」
「何年間一緒にいたと思ってるんすか?」
「まあ、そうだね‥‥‥。じゃあ僕も行くよ。寄り道癖のある誰かさんを見張る必要があるからね」
「そういうの、余計なお世話って言うんすよ?」
「世話焼きはお互い様でしょ」
まだ部屋を片付けていたキドに用件だけを告げて107と書かれたドアを開ける。ビルの隙間から覗く空は殺人的なまでに真っ青で、俺達を押し潰そうとしてるみたいだった。「眩しいね」隣からそんな声が聞こえる。本当に本当に、眩しすぎるくらいの夏だった。
title:joy