∴一つの冬の欠落
寒い、というそのたった三文字を呟いたきりじっと踞って動かなくなった弟に俺がしてやれることと言えば、同情と憐れと苦痛を伴って「そうだな」と答えることくらいしかなかった。ベッドも、毛布も、俺達二人きりが日陰に寄り添う空間には置いてある訳がなくって、日向で無邪気に駆け回る同い年くらいの子供を見ては馬っ鹿じゃねーのと大人ぶったフリをしてギリギリと歯を鳴らす。「寒い。」薄手のカーディガンを羽織った弟がもう一度呟いた。息が白くなり始めた季節のことだった。
「兄様、今日の予定ですが‥‥‥」
Vがスケジュール帳を開きながらつらつらと何時何分何処々へと読み上げるのを頬杖をついてぼんやりと聞き流す。最早デュエリストなのかタレントなのかわからないスケジュールは酷く退屈なもので、愛想振り撒いてにこにこしてればいいかなんて最低限の体裁だけを気にして欠伸を一つした。
「兄様、ちゃんと聞いてくださいよ」
「聞いてるって」
「嘘をつかないでください」
諦めたようにVが溜め息と共にスケジュール帳を閉じた。焦げ茶色のカバーのそれはいつだかにトロンに手渡された物だ。そんな値段すらよくわからないありふれたカバーに傷一つつけないVは一体何を期待しているのだというのだろう。そんなことしたって、と考えるのは何度目の話か。そういえば、自分はあのスケジュール帳を何処にしまったっけか。
「もういいです。僕も兄様に同行しますので、兄様は僕の指示に従ってください」
「トロンの指示か?」
「ええ、きちんと監視するようにと」
「監視ねぇ‥‥‥。誰が誰を?」
単純な疑問を提示すればVが不審者でも見つけたみたいな、あからさまに疑いの目を向けてきた。俺ってそんなに信用なかったっけと少し悲しく思ったり思わなかったり。この家ではみんなそうなのだ。誰が誰を信用したらいいかなんて誰もわかっちゃいねえ。暗闇で名前を呼ばれてもその声が本当に自分の思い描いた人物かどうか確認する術がないように、俺達は毎日を宛のない不安に吸いとられている。誰がいつ自分に十字架を突き付けるのか。情けなくもその恐怖に震えているのだ。本当に、あほらしいと思う。
「それなら、兄様もよくご存知でしょう?」
「そうか。そうだな」
さあ、もう時間です。そう言って腰を上げたVに続いて外に出てみると、頬を凍えるような風がなぞって行った。もうそんな季節になってしまったのか。溜め息と一緒に吐いた息が白い。
「寒いな」
「そうですか?そんなことより早く移動しましょう。予定は詰まってるんですから」
Vは俺を振り向くこともせずにスタスタと歩いて行く。そこにはもう寒さに震えていた幼児はいなかった。きっとあの子は殺されたのだ。理不尽に巡る、希望も糞もないこの寒空の下で。
title:joy