∴ただ愛してほしいと願っただけなんだ



ただ愛して欲しかった。愛されない自分など、ただのゴミだと思っていた。

見下ろした地面は結構遠い所にあって、今ここから飛び降りれば間違いなくぺしゃんこになれることだろう。フェンスの内側から見た景色はどこまでも青く澄んでいて、まるで俺を嘲笑っているみたいだった。流れる人波も、生い茂る緑も、輝く太陽も、勇気の欠片も持たない俺を責め立てる。ゲラゲラゲラゲラ笑いながら。

「ねぇ、こんな所に連れてきて何の用なの?」

彼女は露骨に不機嫌な声で俺に問いかけた。フェンスに掴まっている俺と扉のすぐ目の前にいる彼女との間には3メートルほどの距離が存在していて、それが俺と彼女の距離を表していた。俺はしばらく考えるフリをしながら真っ青な空を仰ぎ見る。とても雨は降りそうにないななんて、全然関係ないことを思った。

「またまたぁ。屋上への呼び出しなんて、理由は一つしかあらへんやろ?」
「アンタの為にいちいち脳を働かすなんてしたくない」
「出雲ちゃんってば手厳しいですわぁ」

ケラリと笑ってみれば彼女は益々不機嫌そうに眉の間に皺を寄せる。着飾らないストレートな言葉はどこまでも俺とは正反対で、けれどどこか俺と彼女は似ているような気がするのだ。そんなのお前の妄想だろうと否定されてしまえば言い返すことは出来ないけれど。

「出雲ちゃん、俺と付き合うたりしてみん?」

けろりと笑ってそう言えば、苦虫を噛み潰したような、という表現は正にこの為にあったんじゃなかろうかって顔で彼女は俺を見た。あまりにも予想通り過ぎてしょげることも出来ない。通り抜ける風が彼女の長い髪をはらはらと舞わせて、少し顔にかかったそれは邪魔じゃないのだろうかって思った。ああいけないいけない。関係ないことを考えてしまうのは悪い癖だ。

「そんなくだらないことを言うためだけに私を呼び出したの?」
「俺としては一世一代の告白なんやけど」
「ハッ、笑わせないでよ」

笑いもしないで俺の告白を見事にふった彼女は今にも逃げ出さんと爪先を苛立たせている。それでもこの屋上から出ていこうとしない彼女の優しさに、一筋の希望を持つことは間違いだろうか。

「じゃあ、別のお願いをしてもええ?」
「何よ」
「『愛してる』って、言ってみて」

爪先が鳴らしていた音が消えて、屋上に静寂が舞い降りた。彼女は少し驚いたように目を見開いたけれど、それもすぐいつもの仏頂面に覆われてしまって残念だなあなんて思ってみたり。彼女が口を開くまで自分も喋ることはしないでおこうと決めていたから、それはそれは長い時間が俺達の間を流れたような気がする。気がするだけで、実際どれくらいの時間が経ったのかは時計を持っていない俺にはわからないけれど。

「‥‥‥馬鹿じゃないの」
「別に純度百パーセントの嘘でええんやで?ただ記号としての『愛してる』でかまへんから」
「そんなことに何の意味があるっていうの」
「それは個人的な問題やからなんとも言えへんなぁ」
「心底くだらない。吐き気がする」

吐き捨てるようにそう言って、彼女は屋上の扉に手を掛けた。距離感3メートルの位置から見た背中は随分小さく見える。その何を背負ってるのか知れない小さな背中にも、俺なら愛してるを掛けられるのになと小さく呟いた所で聞こえやしないだろう。
誰もいなくなった屋上は寂しさ故か少し寒く感じられたけれど、そんなことに慣れっこの俺は飛び降りることも出来ないゴミくずだった。



title:自慰


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