∴伝えられなくてごめん



あのね、ずっとずっと前から聞いて欲しいことがあったんだ。いつ頃からだっけ。多分、僕がまだ君より背が大きかった頃からだったような気がするよ。あの頃の君は小さくて泣き虫で僕が守ってあげなきゃって柄にもなく思ったものさ。それがいつの間にこんなに大きくなっちゃってさ。‥‥‥ああ、ごめん。話が逸れたね。あ、そうそう、君に聞いてもらいたいことがあるだよ。僕はどうしようもなく嘘つきだから上手く言えないかもしれないけれど、いや、多分言えないんだろうね。今までもずっとそうだったから。それでも聞いてくれないかい?僕はね、ずっとずっと君のことが、

カノの言葉はそこで途切れた。「が」の音を発した口の形のまま息も吸わないで苦しそうに眉を潜めている。開いた口から言葉が溢れようとしているのに、何かがカノの邪魔をしていた。本当に苦しそうだと無責任に思う。きっと言葉が喉を塞き止めてしまっているのだ。多分、今までもずっとそうやって呼吸困難に陥ってきたのだろう。その苦しみは知りすぎてしまう自分にはわかるわけなかったけれど。
しばらくして、静かに口を閉じたカノは「また、駄目だったみたい」と笑った。ごくりとカノの喉が動く。飲み込まれ食道を通り胃液に溶けて行く言葉は、もう、俺には届かない。

「ねえカノ、俺は言葉を聞くことは出来ないけれど言うことは出来るっすよ」
「そうだね」
「それじゃ駄目なんすか?」
「駄目ではないよ。ただこれは僕の問題だから残念ながらどうにも出来ないんだ。例えそれが君でもね」

カノはまるで台本でも読んでるみたいにすらすらと噛みそうになることもつっかえることもなく喋る。すらすらと吐き出された文字列は綺麗に整列して綺麗に消滅していった。文字列の消えた空間は恙無く俺とカノとの間を一定の距離で隔てている。けれど俺には彼の伝えたい言葉が何であったのかがわかるのだ。それは能力とかそういう問題ではなくて、一般論に近いかもしれないようなごく普通の感覚でわかってしまうのだ。それは当たり前と言ったら大袈裟ではあるが二人を隔てる空間と同じ程度には俺たちの間に恙無く伸びている感情である。綺麗で可愛くて怖くて不安で、いちごのたっぷり乗ったタルトのよりも甘酸っぱくて、サバンナのライオンのキバよりも鋭く抉るその感情の名前だって伝え方だって、人類はみな平等に知っているはずなのだ。俺だってカノだって痛いくらいに知っているのだ。けれど何故だろうか。平等なはずのその権利が剥奪された彼はもう何も喋ることなど出来なくなってしまった。

「愛してる」
「‥‥‥」
「愛してるっすよ、カノ」

無音、沈黙が俺たちに張り付いた。カノは何も言わないで、笑顔ではなくただただ無表情に俺を見てくる。そのカノに、沈黙を型どった空気を引き裂いて手を伸ばせば、彼は小さく小さく「ばぁか」と呟いた。それが彼の「愛してる」である。



title:自慰


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