∴生まれてくれてありがとうって呟いた
幾億とも計り知れぬ彼女の愛は、他ならぬその彼女の愛により現実から切り離された。現実に取り残されたオレは、その彼女が残した幾億という愛にすがることで彼女の面影を見出だし忘れまいと深く心に刻み付けることしかできなかったのだ。
「それじゃあ明日も見えないままですよ」
唐突にオレの前に表れた少女は何もかもを知っているという顔で言い放つ。
「外の世界はご主人が思っているよりもずっとずっと明るいんです。ご主人にはその青い空の下で生きる権利があるじゃないですか‥‥‥」
泣きそうな顔を偽りの気丈で隠した少女は感情を込めないように、わざとゆっくり話しているようだった。それはまるでオレに同情でもしているような口振りで、腹の虫がじくじくと蠢く。いったいお前にオレの何がわかるというのか。彼女の愛を知らないくせに彼女の何を知っているというのか。かさぶたを無理に剥がしたようにじくじくと溢れるのは怒。
「きっと彼女もそれを望んでいると思いますよ」
何もかもを知っているという顔でオレを諭す少女の首をオレは思わず締めた。一瞬苦しそうな顔をして、でも少女は抵抗することなく白色のポリゴンに分散する。呆気ないものだった。みんな簡単に死ぬものだと再認識して悲しくなった。こんなに死ぬのは簡単なのに、どうしてその逆は叶わないのだろうか。
* * *
「いつも明るくって、眩しかったっす」
「僕達がどうやったら笑っていられるのかをいつも考えてくれてるみたいだった」
「俺達は彼女に救われたんだ」
柔らかい笑顔で彼らは語る。マフラーの話、そこから発展したヒーローごっこの話。普段の彼らからは想像もつかないような慈愛に満ちた笑みは、どうやら彼女の受け売りのようだった。思い出の中の彼女の笑顔。思い出していたら知らず知らずのうちに涙が滲んでいたらしい。差し出されたハンカチに驚いて、それでようやく気づいたくらいに、それは自然と流れ出していた。見ると彼らも同じように赤い瞳を濡らしている。
「もう、シンタローさんが泣くからもらい泣きしちゃったじゃないっすか」
「あっれ〜、もしかしてキドも泣いてる?」
「うるさい、勘違いするな」
和気あいあいとする彼らを見ていると、彼女が何を守りたかったのかがわかったような気がした。彼女が守った笑顔は、今も確かにここに存在している。それはとても嬉しいことだけど、肝心の本人が居なくちゃ意味がないだろうが。呟いた負け惜しみが涙に滲んだ。
* * *
「久しぶり」
「おぅ」
夏風香る教室に影法師のように起立する彼女は、昔と変わらない笑顔でオレのことをじっと見据えていた。「ひさしぶり」たったその五文字を聞くまでの間にいろんなことがあった。ありすぎて何を喋っていいかわからなくなって、金魚みたいに口をパクパクさせたりして、最終的に結局何も言えずに息を吐いた。彼女はそんなオレの様子に声を出して笑ってた。彼女もまだそんな風に笑えるんだと知って自分のことじゃないのにほっとする。
「元気そう、だね」
「そうでもないと思うけど‥‥‥」
「そっか‥‥‥。あ、じゃああの子達は?」
「それなりに元気にやってる。もうお前が心配することはねえよ」
「そう。よかった‥‥‥」
分かりやすく胸を撫で下ろした彼女はやはりあの二年前のままだった。自分は18になったけれど、さて、彼女もまた18になれたのだろうか。まるで時が止まったような彼女に、いったん鳴りを潜めていた不安がぐるぐると渦巻いた。(そんなこと、考えなくてもわかってただろうに。)オレの中の何かがそんな声を立てた。‥‥‥ああ、もちろんわかっていたとも。天才が聞いて呆れる。
「ごめんね‥‥‥」
「まったくだよ。コッチの気も知らずにノコノコと死にやがって」
「あ、うん、そうだよね‥‥‥。ごめん‥‥‥」
「だからって謝んな。その、えっと、オレ達のためを思ってってことは理解してるから。‥‥‥納得はしてないけど」
「そう。‥‥‥じゃあ、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だね」
『ありがとう。』そんな短い音に詰め込まれた彼女の気持ちがオレには少ししかわからなかった。でも少しわかっただけでもマシか。世界のこと、彼女のこと、何もかもわかっていたつもりになってたっていうのに、本当のことなんてちっともわかっちゃいなかったんだ。そうだ、あの子には謝らなくちゃならないな。
「あのね、シンタロー。お願いがあるの」
彼女はおもむろに切り出す。無意識かはわからないけれど、その手はきつく首の真っ赤なマフラーを握っていた。
「オレにできるようなことなら‥‥‥」
「シンタローだから頼むんだよ?」
タイムリミットが迫っているのがわかった。彼女を流れる時と自分を流れる時は似ているようで、まるで違うみたいで。そんな彼女の一字一句を残らず耳に埋め込んで、彼女の笑顔を目に焼きつけようと必死になった。それが顔に出てたんだろう。そんなに緊張しないでよ、彼女は笑う。
「えっと‥‥‥、まず、あの子達には、『もう会えないけど、私はちゃんと居るから、だから笑っていて』って」
「‥‥‥わかった」
「あとお父さんにはね、『いつまでもくよくよしてないでシャキっとして!あとご飯もちゃんと食べるんだよ!』‥‥‥って、なんか説教臭くなっちゃった」
「まぁ、いいんじゃね。家族だろ?」
「そう‥‥‥だね、家族だもんねっ」
刻々と濃くなっていく茜色に照らされた彼女は徐々にその夕暮れに体を溶かしていく。お別れ、べつにこれが初めてじゃないけど。一回目はそれこそオレからしてみれば理不尽に、何の拍子もなくあっさりと消えやがって、一体どれだけの人がどれだけ悲しんだと思ってんだ。だから今度は、納得のいかないお別れはしないからな。でも、しょうがないなら、覚悟を決めるよ。
「シンタロー。これ、あげるね」
差し出された彼女の手には真っ赤なマフラーが握られていた。真っ赤な、彼女の優しさの象徴。それを彼女はオレの首に巻き付ける。暖かかった。生きていた。
「ねえシンタロー‥‥‥、あのね、絶対に幸せになるんだよ!せっかくそれもあげたんだから幸せにならなかったら怒るからね!」
彼女はまるで泣きそうな顔で言った。やめろよ、そんな顔。泣きたいのはオレの方だし、お前にはそんな顔似合わない。だから、
「‥‥‥あのさ、一ついいか」
「何?」
オレは瞼を一回閉じて大きく息を吸った。きっとこれが彼女と一緒に吸う最後の空気だと思うから。その空気を名一杯に肺に吸い込んで、吐き出す。
「お前も、幸せになるんだからな」
きょとん、そんな擬態語が似合う拍子抜けした顔だった。そういえばそんな顔も久しぶりに見たな。今日はお前のいろんな顔が見れて嬉しかったよ。まるで昔に戻ったみたいで、懐かしいし、安心する。でも、やっぱり、さ、ほら、
「あ、当たり前だよ!」
そうだ、やっぱりお前には笑顔が似合う。そんなお前にオレは知らず知らずのうちにずいぶん励まされていたみたいなんだ。いや、オレだけじゃないだろうけど。その顔が見れたからオレは幸せだよ。
「じゃあ、‥‥‥『さようなら』、しようか」
「そう、だな‥‥‥。じゃあ、その、今までありがとうな。ろくにコミュニケーションも取れないようなオレに構ってくれて」
「うわ、ネガティブ!もうちょっと明るくしようよ!」
「明るくって言ったって無理だろ!」
「ほんっと、最後までシンタローはシンタローらしいね」
「とにかく!‥‥‥じゃあ、元気で」
「うん。‥‥‥まあ、悲しくないって言ったらもちろん嘘になるけど‥‥‥でも、それ以上に楽しかったから!みんなのこと、もちろんシンタローのことも絶対忘れないし、それに、みんなのことが大好きだから!」
そう言って叫ぶようにして彼女は茜色に消えた。実にあっさりと、まるで始めから存在してなかったみたいに。でもオレの元にはしっかりとあのマフラーが残っていた。おかしいんだけど、絶対悲しいはずなのに笑顔になれるんだ。もちろんオレだってお別れしたくないし、最後までみっともなかったし、言いたいことだってまだまだ残ってるんだけど、‥‥‥けど、アヤノが言うなら幸せになってみせるよ。
「じゃあな!お前のこと、好きだった!」
大声で茜色に叫ぶ。聞こえたらいいな、なんてこっそり思いながら。
title:joy