こんな機会、そうないだろうから

何度もそう自分に言い聞かせた、ここで奮起しないでどうするのだ、と
しかし人の心というのはそう単純ではない、
頭でわかっていても、自分が要らぬブレーキをかけそうになる、幾度も、幾度も
自分を叱咤しつつ、ようやくここまで来られた、なんとも情けない話だが

そんな、やっとの思いで訪れた場所は、ここ、アンマルチアの里だ
ここに来るまでの自分との葛藤で、精神的に、ヒューバートはやや疲弊していた
だが、ここでめげてる場合ではない、本番はこれからなのだから
ぐっと拳を握り、彼女の住居へと足を運ぶ

今日は世間で言う、ホワイトデーというものである
端的にいえばバレンタインデーのお返しをする日である

色恋沙汰など無縁なのでは、と教官までにも評価されたパスカルによって
先日、色々と不測の事態のオンパレードとなったバレンタインデー
だらしなく、自分は精神的に取り乱しながらも、
体裁という名のプライドで己と、本心との間に常に壁を作り
「美味しい」という感想すらも彼女に言わせるという狡猾さを発揮してしまった

思い出しては、アンマルチアの里で宿の厨房で重い溜息を吐いてしまったものだ
先ほど、宿の厨房を借りたのだ、作ろうとしてる物が、物なだけに
だが、バレンタインでの自分の不甲斐なさを嘆き、
彼女には色々失礼な応対をしてしまったと思う自責の念もあれども
なによりも、彼女への、パスカルへのお返しなら、手を抜きたくなかったのが最たる理由かもしれない

作ったのは彼女の大好物である、バナナを用いて作るバナナパイ
さすがにこれは長時間持ち歩くべきものではないと思い、現地で作る事にしたのだ
宿の主人から、暖かい、恥ずかしくてしょうがない声援をもらいこそしたが
正直こういう系統は普通の料理とは違った難しさが付いて回るもので、
紆余曲折こそあったものの、なんとか完成した事に、安堵し、同時に緊張し始める
これを、彼女に渡すと言う最重要の行動が待ち構えているからである

一応彼女があの日にしたように、事前にこちらから彼女には手紙を出しておいた、
今日は家に居てください、と、簡潔に記して
彼女が今日を指定した意味を察しているかは、また別問題となるのだが

「…ま、おそらくわかっていないでしょうけどね」

ボソっと、到着した彼女の部屋へと続く扉の前で呟いた
出来上がりから間もないバナナパイを引っ提げて
躊躇しそうになる己を奮い立たせ、部屋の扉をノックしようとした、刹那

「ヤッホー、弟くん!」
「うわああ!!?」

扉が突如開き、思考の渦中の人物が顔を出し、吹っ飛びかける神経の一部を
持参している彼女へ進呈する品を守る事にかろうじて繋ぎとめた

「どうして僕が居るとわかったんですか!?」
「だって部屋の前でなんかボソボソ言ってたの聞こえたから」

自分の失態だと知って、頭痛を覚えた、どれだけ今の自分は、
彼女に思考を、持っていかれてるのか
そこまで考えて、恥ずかしくなったので頭痛の件について即座に放り投げたのは言うまでもない

「とりあえず!、これをお渡しします」

ずいっと持参したバナナパイを彼女に押し付けた
だが肝心な事を言っていない、これの、意味するところを
恥じらいなど捨てて、言わねばとヒューバートにとって決死の覚悟をしようとした時

「おお、これホワイトデーのお返しだよね!」
「え、あ…その、はい」
「わー!、バナナパイだ、やったー!」

彼女に、言われてしまった
バレンタインでの、あなたへのお返しだと、能動的に発する事無く終焉を迎えた
どうしてこう、妙な所で察しがいいんですか、と
不当な八つ当たりを彼女にかました、限りなく虚しいのは言うまでもない
心の端で、今日という日がなんなのか、認識していた彼女に内心驚かされたが
まあ、こうなった以上、常のようなやりとりでも交わさせてもらおうと
前向きなのか、後ろ向きなのかわからない心の入れ替えをして、彼女に向き合う

「ところで、よく僕のさっきの呟きを聞き取れましたね」

不覚にも、自分が部屋の前へ来てる事を知らせる要因となった、例の呟き
微かに空気を震わすぐらいの声量でしかなかったはずだ、相当耳が良かったのかと思っていると

「だって、弟くんが何時来るか楽しみで、もう扉の所でずっと待ってたから」
「…!?」

予想だにしなかった事実を、バレンタインと同じように突きつけられた
待っていた、自分を、今日の、いつ来るともわからない、自分を

「…そうでしたか、道理で聞こえるはずですね」

だが、深く突っ込めなかった
何故かはわからないが、今はその時でないと、思った

「美味しいね、これ! 弟くんが作ったの?」
「そうですよ、というか…せめて座って食べてはいかがですか」

早速開けて、いつのまにかバナナパイを頬張って喜色満面の彼女の表情で、今は満足しておこう
そう心内で決定して、溜息交じりに彼女をたしなめた



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