パラッ…パラッ…

部屋にほぼ一定の間隔で紙の擦れる音が響く
音の奏者はヒューバート、手元には一冊の本
厚みはそれほど無く、片手で楽々と持てるぐらいの重さ
部屋に備え付けで置いてあった椅子に腰かけ、足を組みながら
ヒューバートは本にただただ神経を注いでいた
部屋には彼一人だけ
静寂と呼べる空間を作り出しており読書に非常に相応しい環境である
外部からの横槍も入らず、本の世界に自然と入り浸る事が出来る
唯一この場に響くページを捲る音でさえもそれを手伝うかのようで
それ以外の音の要素は微塵もなかった
本を読んでいる最中にややずれた眼鏡のブリッジを
本を持っていない方の手でくいっと持ち上げ、またその手でページを捲る
そんな様相が知的な雰囲気を醸し出していた、部屋の環境も、彼自身も

ヒューバートが手にしている本はいわゆる小説で
ついこの間見かけて購入してみたものだ
読んでみると案外面白く、自然と読むペースが早まる
だが、今日限り、いや今夜限りで読み切ってしまうのはまず無理だった
まだページの半分もいっていない
切りのいいところで一旦止めよう、そう思いながらも
心は自然と先へ先へ、と続きを急かし
意思に反してページを捲る手はその動きを止めてくれない
もう少し読めば、次の章へと進む場面に移りそうなので
そこまで読んで今夜は終わりにしよう、と心の内でそう決定して
意識を本に更に向けようとしたその時

ドタドタ、と夜の宿では迷惑千万極まりないけたたましい音が
遠くから聞こえてくるのをヒューバートの耳は確かに拾った
本に向けようとした意識が削がれ、何事かと顔を顰める
しかもどんどん音が大きくなっている、
おそらくこちらの部屋へ近付いてきてるのだろう

――またですか

はぁ、と溜息を一つ吐き、栞を本に挟んで本を
側に備え付けてあった机に置く、
しばらく呑気に読んでいられないからだ
本を傍らに置いた彼の中では一つの言葉が脳裏に鮮明に浮かんでいた
ドタドタ、という音がもう部屋の前の所まで迫ってきた、そろそろだろう
あと3秒、2秒、1秒…頭の中で行っていたカウントダウンが0になった刹那
バンッ!、とそりゃもうノックも礼儀も遠慮もへったくれもなく、
ヒューバートの部屋の扉が豪快と称するに相応しく開いて

「弟くん!!」
「お断りします」

切羽詰まった様子で顔を覗かせたパスカルに対し
ヒューバートは準備していた言葉と共に用件を聞き切る前に一刀両断にしたのだった




まさか訪ねて早々に全てをお見通しと言わんばかりに
光に匹敵するのではと思われる早さで全否定されるとは思わなかったらしく
パスカルはポカンと目を丸くし、口を開けたまま
半分だけ部屋に足を踏み入れたままの態勢で硬直していた、が
それは本当に少しの間だけで
すぐに部屋の住人の許可などなんのそので部屋にその身を滑り込ませ、
そのまま扉をしめ、なんと鍵までかける始末
もう誰が来ても大丈夫、という準備を流れるような動作でこなし
そのまま閉めたドアに寄りかかってからようやくパスカルは異を唱え始めた

「ひどっ! あたしまだ何も言ってないのに!」
「言わなくてもわかります、大人しくお縄を頂戴してはどうですか」
「いらない!」
「言い切ってもダメです、というか施錠までしないでください」

依然として足を組みながらも今度は本を置いたことで
自由になった腕を組んで憮然とするヒューバート
訪問者を歓迎する気分など微塵もない、と態度で示しているのだ
もっともそんな態度が彼女に通用するかは遥かに怪しいが

ヒューバートには突如訪れたパスカルの用件などもうわかり切っている
どうせ匿ってくれ、とでも頼みに来たのだろう
そしてその理由も手に取るようにわかっている
ゆえに呆れた溜息交じりにパスカルにヒューバートはこう問いた

「そんなに面倒ですか、お風呂に入るのが」
「そうじゃないけどさ〜研究が…」

とどのつまりそういう事だ、
身を清める事より研究を優先したくてパスカルはシェリアから逃げてきたのだ
今頃シェリアは目を吊り上げてパスカルを探しているのだろう
そんなシェリアとパスカルの鬼ごっこは旅の間に何度も見てきた
それはもう両手を使って数え切れないほどに、懲りも飽きもせず
たかだか一時間、いやせめて三十分だけでも時間を割けばそれで済むというのに
科学者気質の彼女はその時間すらもったいないらしく幾度も逃亡を図っていた
結局のところパスカルの逃亡は最終的に未遂に終わり、
シェリアに強制拉致に合っている、つまりオール黒星イコール勝率0%
ゆえに逃亡する時間があるなら素直に従ってしまった方が
とっとと面倒事が済み、研究にまた好きなだけ没頭できて
はるかに合理的だというのに、悲しい事にその方向に彼女の頭は向かないようだ
やれやれ、とヒューバートが肩をすくめると遠くからパスカルを呼ぶシェリアの声が聞こえた
どう聞いても普段の声よりトーンが低い、つまり現在進行形で不機嫌である証拠
普段温和な彼女は怒るとそれなりに迫力があり、
ヒューバート自身彼女とは幼馴染の間柄になるのでそれを嫌というほど知っている
シェリアは理不尽に誰かれ構わず怒りをぶつけたりする性格ではないが
翌朝辺りにそんな怒りのオーラを全身に纏った彼女と対面するのは正直御免被りたい

原因があるから結果がある、だが裏を返せば原因が解消すれば事態は収束するはず
シェリアの声が近くなってきた、もうすぐそこまで来てるのだろう
そしてその原因にして解決策でもある存在は今現在目の前にある、ならば

「仕方ありませんね」
「ほえ?」
「ここにでも座っててください」

すっと腰を浮かし、今まで自分が座ってた椅子に座るよう彼女に促す
疑問符を浮かべながら素直に従うパスカル
ドアからやや遠ざかったこの場所にパスカルが腰を落ち着けたことで
生じた隙をヒューバートが見逃すわけもなく
即座にドアに近づき施錠されたドアを解錠し開け放ち

「シェリア! パスカルさんはこちらですよ!」
「お、弟くーん!?」

突如ヒューバートが起こした暴挙にパスカルは動転し、
椅子を倒さんとばかりの勢いで立ちあがり再びドアを施錠して阻止しようとする
そんなパスカルの行動はお見通しでヒューバートはドアを解放したままパスカルを器用に押さえつける
当然ながら抵抗するパスカルだが男の力と女の力ではその勝敗は火を見るより明らかで

「弟くんの裏切り者ー!」
「いつ僕が匿うと承諾しましたか、観念してください」
「やー!!」
「駄々っ子ですかあなたは!」

本当にこの人は自分より年上なのかと今回に限った事ではないが、ヒューバートはいつになく強くそう思った
彼女は生きた歳月と精神年齢は比例しないといういい例になるだろう
ともあれ、間もなくシェリアが聞きつけて到着するはず
パスカルを引き渡してしまえばこの騒動は収まる
正直夜中にこんな騒ぎを起こしてる時点で他人に迷惑極まりない、
さっさと収束させるに限るのだ、彼女を抑える力は緩める気は塵ほどにもない

「パスカル〜?」

そうこうしてる内にシェリアが到着した、声のトーンはそのままに笑顔のままで
もう決着はついただろうと思いヒューバートはドアとパスカルを押さえていた手をどける
パスカルの顔が瞬時に凍りついた、当たり前だが

「げ…こ、こんばんは〜シェリア〜…」
「ええ、良い夜ね、月が綺麗だわ」
「そ、そうだね〜」

――笑顔だけど声と雰囲気が笑ってませんよシェリア

視線を窓の外から見える夜空に映える満月へと逸らすヒューバート
正直見るに堪えなかったのだ、恐怖的な意味で

結局その後パスカルにシェリアの雷が落とされるという
今夜の宿の住民達へ最後の迷惑をかけて事は落ち着き、
パスカルは問答無用に連行されていった、宿屋に平穏が戻ったのだ
人知れず宿に平和と取り戻した功労者ヒューバートは
パスカルがシェリアによって連行されていくのを見えなくなるまで見送って再び部屋へ入り、
事態の収束にさりげなく一役買った椅子に腰かけて本を手に取り
さっきの騒動など何事もなかったかのようにヒューバートはまた本に没頭していった

静寂が戻った空間でまたゆっくりと時のみが進んでいく
ちなみにだがヒューバートはすでに体は清めてある
買った本をゆっくり読みたかったため兄と入れ替わりの形で先に済ませた
好きなだけ没頭できる環境はすでに整っていたのだ、イレギュラーの介入は想定外だったが

――もうそろそろキリがよさそうですね

静寂が再び訪れたその部屋で読書を再会してからしばらく
展開から察するにそろそろ物語の切れ目に差し掛かるとヒューバートは予想した
もう少しか、と思いながらもヒューバートは読むスピードは変えず
文字を一つ一つ丁寧に読みあげていく、今までと同じように

「弟く〜ん」
「うわあ!?」

若干意識が本の世界から途切れた瞬間を見計らったように
ほんの少しだけ開いたドアの向こうから覗きこんで
こちらを見るパスカルにヒューバートは不覚にも飛び上がってしまった
本を取り落とすという失態までは犯さなかったがやや手元が狂いそうになる

「…なんですか、仕返しにでもきましたか」
「うんにゃ、違うよ〜」

一番ありえそうな可能性を提示するも即座に否定の言葉が返し
先ほどと同じように遠慮なしに部屋へ入ってくるパスカル
さっきと違うのはタオルを肩から提げている事と施錠までしない事のみ
どうやらまたしばらく読む事は叶わなさそうだ、とヒューバートは嘆息し再び本に栞を挟む

「では何かご用でも?」
「ん〜まあ、そうなるかな」

良く見ると手にやや分厚い本らしきものを持っている、おそらく研究書等の類だろうか
部屋の脇に置いてあるベッドに座り込み、パスカルはその本を開く
本の最初から読み始めない辺り途中まで読んでいたものなのだろう

「…で、何の用でしょうか」
「ああ、言ってなかったっけ、しばらくここにいさせて」
「本を読むのならあなたの部屋で読んだ方が集中できると思いますが」
「いいのいいの」

手をヒラヒラさせながら視線は本に落としたままのパスカルに
なにがですか、とヒューバートは突っ込む
毎度の事ながら訳がわからない

――というか部屋の住人の意思は無視ですか

今夜何度吐いたか数える気にもならない溜息をまた一つ、それに込めたるは諦め
彼女の行動の一つ一つについての考えを紙にまとめようとするときっと何枚あっても足りない
つまり考えるだけ無駄な労力を費やすだけ
部屋に自分以外の人が居座っているので些か集中力を欠く事になりそうだが
読んでいる本の続きが気になるのは変わらないため、再びヒューバートは本を開いた
再び意識をそちらへ向け――

「へぇ〜弟くん小説読んでたんだ」

――ようとした瞬間ヒューバートの肩にパスカルが顎を乗せて覗きこんできた
いつの間にか気配もなく接近していた彼女にヒューバートは頭が真っ白になる
しかしすぐに意識を浮上させる事ができたのは普段冷静な彼の性格故か

「パ、パスカルさん、何してんですか!」
「弟くんが持ってる本見てるだけだよ?」

ああ、もうこの人は、本当に頭の痛い思いをさせてくれる
そもそも風呂上がりに異性の部屋訪ねてる時点で問題があるというのに
その上無駄に接触してくるとは、なまじこれが天然でやってるだけにタチが悪い
そんなヒューバートの思考など知る由もなくパスカルは更に身を乗り出してきたその時
ペチョッとなにかヒューバートの顔に張り付いた、同時にひんやりした感覚

――まさか、この人は

急速に意識が冷水を浴びたように鎮静される、ヒューバートは本をまた閉じて

「パスカルさん、ちょっと失礼します」
「ん?」

そろそろ、と手をパスカルの頭、いや厳密には髪に近づける
どこか後ろめたい感情があるのは無理矢理どこかへ追いやり、そっと触れる
ややピクッとパスカルが反応したのも同様に扱う
そして、手に伝わるあきらかに湿った感触

「…やっぱりですか」
「え、え?」

即座に困惑している彼女を尻目に
肩に提げてるタオルをひったくりバサッと彼女の頭に被せ、そして

「髪ぐらいちゃんと拭いてください!!」

怒声を一発彼女に叩きこんだ、もしかしたらまた宿の住民に迷惑をかけたかもしれないが
そんな事を気にする余地は今のヒューバートにはない
まさか間近で大声を出されるとは思わなかったらしく
ヒューバートから身を離しパスカルはぎーん、と痛む耳を押さえる

「い、いきなり大声出すなんて酷いよ〜」
「…まあ、その事に関しては謝ります」

確かに咎めるためとはいえ、それは怒鳴っていい理由にはならない
どこまでも女性でありながらも男性以上に無精な彼女に思わず頭に血が上ってしまったが
今思えばさすがにやりすぎたと思う、だが

「ですが僕が指摘した事は紛れもなく正論のはずです、早く拭いてください」
「しょうがないな〜」
「なにが『しょうがない』んですか、全く」

再び閉じた本を開くヒューバート、だが栞を挟み忘れてたのに今頃気付く
だが内容は覚えているのでどこまで読んだかはわかるので続きを探すのに手間は取らなかった
パスカルが髪を拭き始めたのか部屋にタオルの擦れる音が聞こえ始めた
どうやら素直に従い始めたようだ、安心して再び本に視線を落とし
タオルの擦れる音をバックにヒューバートはまた読書を再開した、のだが
時間とともに徐々に音が聞こえなくなってくる、少しずつ少しずつ小さくなっていく
嫌な予感がしながらもヒューバートはパスカルへと視線を向けると、そこには

「…」

持参してきた研究書を開きながら片手間に髪を拭く彼女の姿がそこにあった
完全に意識は研究書に向いててもうタオルを持ってる手は動いてるのか動いてないのかわからない
そんな様子にヒューバートの中でなにかが音を立てて切れた

バシィッ!、という派手な音を立ててまたも本を閉じる
本に感情があれば痛烈な悲鳴をあげたに違いない
突如部屋の空気を揺るがすような衝撃にパスカルもビクッと肩を跳ねさせ
つかつか、と歩み寄ってくるヒューバートへ視線を向けると明らかに不機嫌な表情で
口端をひくつかせながら腕を組んで見下ろしており、パスカルの顔が気まずさでやや引き攣る
刹那ヒューバートはバッと目にもとまらぬ早さでタオルを奪い取り
さっきしたようにパスカルの頭に被せる、だが今回はそのまま
少し手荒にタオルに乗せた手を動かし始めた

「えっと…弟くん?」
「黙っててください、さっきのペースじゃ一晩かけても終わりそうにありません」

微妙にだが声が刺々しい、どうやらご立腹のようだ
普段とは違い、今回は下手に逆らわないでおいた方がいいと本能が訴え、パスカルは大人しく従う事にした
数分後拭き終えたのかタオルをパスカルの頭に乗せたままにして
ヒューバートはさっさと椅子に座りなおしてパスカルに背を向けて本を手に取りなおした

「…ありがとね、弟くん」
「…別に、いいです」

タオルを取り去りパスカルがヒューバートに礼を述べるとなんともそっけない返事が返ってきた
変わらずして背を向けたままのヒューバート、だがこの時彼は

――何を、してたのだろう自分は

かなり動揺していた
またも栞を挟み忘れたその本の読んだページを探す手が完全に行きすぎている事にも彼は気付かない
自分の言い付けを余所に別の事を始めた彼女に腹が立ち、無意識の内に
タオルをひったくって彼女の髪を拭き始めており、我に返ったのは拭き始めて間もない時だった
途中でやめるとあまりにも不自然すぎるため、手だけは止めなかったが
我に返ってしまった頭では考えまいとしても色々と考えてしまう
彼女の髪の特徴的な白と赤の綺麗なコントラスト、女性特有の柔らかな髪質
いつもはない彼女から香ってくる仄かな石鹸の匂いとか

――穴があったら入りたい

むしろその場に穴を掘りたいぐらいの羞恥心が彼を襲う、冷静さを欠くと碌な事がない
それはこれまでの軍人として歩んできた人生で一番わかっていたはずなのに

パスカルも表面上では平静を装いながらも彼の突然の行動に動揺していた
不機嫌の絶頂の様子のヒューバートにこれは完璧に怒らせたかも、と
今まで感じなかった危機感を覚えて、無意識にやや身を縮みこませていた
だがその直後気付けば自分の手にあったタオルが自分の頭を覆っており
タオルと髪が擦れる音が頭上から鮮明に聞こえ始めた
何事かと思わず見上げれば彼がその手で自分の髪を拭いていて
だが表情は変わらず怒りを湛えていて、恐る恐る声をかけると、黙っててくださいと一蹴され
恐ろしさも手伝い、ただ身を任せる事にした
だが途中から手つきが明らかに優しくなった、さっきまでのように荒っぽくはない
そんな感触にどこか心地よさを感じた、それと同時に心が何故かむず痒くなり
彼に髪を拭かれている事がどこか恥ずかしかった、でも決して嫌ではなくて
そんな事を考えている自分の心に、やや動揺を覚えて

ややあって解放されるもついさっき心に走った動揺は過去の物にはならなくて
視線をどこへ向けてよいやらわからず、研究書の存在を思い出し
手元を見ると持参した研究書は自分の手から離れるようにしてその身を閉じていた


――どこまで、読んだだろうか

そう思う心は見事にシンクロして
どうやら今夜は続きを読む事は両者とも叶わなさそうだ


夢中になっていた本の内容を忘れさせたのは、
頭の中に確かにあった栞の存在を取り払ったのは

紛れもなく、彼(彼女)の存在












あとがき

ヒュパス〜やっぱ書いてて楽しい、が
やっぱ距離感が(以下省略

ヒューバートって咄嗟の行動をして
後で我に返って後悔しそうなイメージがあります
そんなイメージから書き上げました
パスカルも若干意識気味?

時間軸上ではアスソフィ話「髪」と並行して進んでます
当初は並行した時間軸でヒュパス話を書く気はなかったので
向こうの話と話を噛みあわせるのが大変でした
創作物を書く時は計画的に(何
こんな物書きになっちゃ駄目ですよ!

お読みいただきありがとうございました!
(2010/5/5)
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