○美味しい生活 | ナノ

玄関の鍵が開く音がする。静かな、それでいて隠すつもりのない足音が廊下を進んで寝室の前まで来た。遠慮のない人。布団の中で1人悪態をついた。ドアに手がかけられる。

「勝手に入ってこないで」
「合鍵くれたのは名前さんでしょ」

何のためらいもなく部屋に押し入ってきた御国さんは、悪びれもせずそう言うとベッドまで近づいてきた。ぎしり、ベッドがきしむ。足元に彼が腰を下ろしたのだとわかった。

「入ってきていいなんて言ってないもん」
「はいはい」

彼の手が私の頭を探して毛布の上を滑る。手で抱え込んでも見つかってしまった頭が撫でられた。

「ごめんね」

一言謝った彼は、布団越しに頭を撫で続ける。とっさに返せる言葉はなくて、黙ってされるがままになった。

「お詫びでケーキ買ってきたんだ」
「ケーキが食べたかったんじゃなくて一緒にお店に行きたかったの」
「わかってるよ、だからごめんって」

ごめんと言われても、今日の午前中が返ってくるわけではないし、約束がなかったことになるわけでもない。ましてやこの日を楽しみにしていた私の気持ちだって返ってこない。

今日は御国さんと一緒に人気のケーキ屋に行く約束だった。でも、朝になって突然都合が悪くなったと連絡がきた。謎がいっぱいで、普段何をしているのかよくわからない人だ。急な予定の変更も珍しくないし、出かける予定がだめになってしまうことも珍しくない。これが初めてではないのだ。

彼の言い訳を、初めは素直に頷いていた。都合が悪くなってしまったのなら仕方ない。丁寧に後日謝罪に来る彼を、気にすることはないと笑って許していた。私はいつでも暇なのだから、彼のいい時に行けばいい。何もこれが最後の約束というわけでも、もう会えないというわけでもないのだから。そう、初めは思っていた。
けれど、一緒に行きたいところが増える度に、果たせなかった約束が積もる度に、私の余裕がなくなっていく。

これが最後でないというのなら、いつが最後なのだろう。もう会えないというわけでないのなら、彼と会えるのはいつになるのだろう。
このまま私がここで引き下がってしまえば、次は来ないかもしれない。素直に頷いているだけでは、離れていく一方かもしれない。こうして彼が謝りにくることも、なくなってしまうかもしれない。

そう頭によぎってからは、素直に彼の言葉を飲み込むことができなくなっていた。彼が破った約束は、次を殺すものだったかもしれないのだ。

「悪かったよ。今回はちょっと、まずい状況だったんだ。……って、前も言ったっけ」

その謝罪には、一体どこまで含まれているのだろう。
約束を守れなかったこと、その理由を詳しく言えないこと、私に言えない何かがあること。どれをとっても、その謝罪一つだけでは私はもう、満足できない。

「ねえ」

撫でていた彼の手が止まる。自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。

「もういいよ。次また約束すっぽかしても、別に、もういいの」

もういいのだ。私に言えない何かがあることなんて、もうずっと前からわかっている。その何かを優先しなくてはいけないことも。だから、もういい。

「でも代わりに、絶対私のところに謝りに来てほしいの」

それでも、毎度毎度悪かったと、申し訳ないと伝えにくる彼の言葉だけは信じていたいのだ。どこまでの意味が含まれるのかは知らないが、その言葉は私のためのものであってほしい。同時に、素直に受け取れる私でありたい。

「絶対だよ」

念を押すように言う。一呼吸おいてから、御国さんは答えた。

「いいの?謝るだけで」
「うん、いいよ。御国さんがこうやって謝りに来てくれるなら、私なんでも許す」

「なんでもだよ。すごいことなんだからね、なんでもって」付け加えると、彼は小さく「わかった」と返した。その返事に満足して、かぶっていた布団を取る。室内はもう薄暗かった。静かで暗い室内、ベッドに腰かけてこちらを見る彼は、とてもきれいだとなんだかさみしくなってしまう。どうして、この人の美しさは切ないのだろうか。
布団の中でぐちゃぐちゃになった髪の毛を、彼の指が直していく。

「名前さんは優しいな」

最後に一束、髪を掬って彼は言った。
優しくなんかない。私はあなたを、ただ引き留めたいだけだから。許す代わりに、あなたの中に留まりたいだけだから。そのために罪悪感があり続けてくれればいいとさえ思っているのだ。優しくなんか、ない。

「ねえ」

もしもそれがばれていたら、それこそ”最後”になるのだろうか。
彼のことだから、本当は気が付いているのかもしれない。知りながらも、騙されてくれているのかもしれない。そうだとしたら、私よりも、あなたの方がよっぽど優しい。
言葉になることのない気持ちが、次を取り付けるために口を開かせる。

「今度は一緒に行こう。いつになってもいいから」

彼は頷いた。返事は、それだけ。
いつでもいいのだ。彼が私のもとに来てくれるのなら。最後をずっとずっと先まで延ばせるのなら。果たせない約束だとしても、次をいつまでも作ってほしい。来ることのない”いつか”になったとしても、ずっとそれを楽しみに待っていたい。

「約束だよ」

あなたがそうあってくれる限り、私は何度だって許そう。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -