○美味しい生活 | ナノ

 人は親しくなるほど、その人と重ならない部分に目がいくのは何故なのだろう。それは一種の他人めいたものを感じさせて、自分の知らないその人の一面を見ただけで、まるで別人だと錯覚してしまう。そして、彼もまた。
 彼と私の関係は、気心が知れているとか、気の置けない友人だとか、そういう類のものではない。身内のような存在ではあるが自分の本心を打ち明けるような間柄では無いのだ。この事実が、毎晩寝る前の横たわった時にお腹にずしりと乗っかるものだからやめて欲しいものである。近い他人、家族でさえそうなのだから、彼なんて尚更知らない国の会ったことのない人と同然なのだ。
 半年ぶりの便りが来た。正確に言うと七ヶ月ぶりのエアメールである。やっつけ仕事で書いたのか、それはレターセットという大層なものではなく、どこの国でも売っていそうなちゃちなポストカードだった。おまけに読みにくい筆記体で三行、簡潔に文章を綴ってあるだけで、例の皮肉交じりな声が聞こえるようである。こんな便りですら破らず、何度か読み返して、それから一応大切にファイリングしてとってある私は偉いと思うのだ。
 今回のだって、なかなかに呆れた文章である。
「ヨークで君に似た猫を見つけました。それで思い出して便りを送ったけど、そっちはどうですか? ちなみにオレは元気です」
 婚約者に対して、こんなぞんざいな扱いをする人は、世の中にそんなに居ないであろう。聞いてもないのに自分の生存報告をしてくるあたり、こっちがやきもきしてるのを見抜いているようで、一周まわって不快である。私も私で婚約者の扱いがぞんざいだ。人のことを言えたものじゃない。
「……なーにがそっちはどうですか、だ」
 不貞腐れてそう言ってみるも、それに続く軽口がその手紙から発されるなんてことはなく、ただ虚しくなっただけだった。こんな時は化粧を落として照明を消して、何も考えずに寝ることが最善だけれど、あいにくとまだスーツでその上お風呂も夕飯も済んでいない。しかし時刻は夜の九時過ぎという無情な数字を表している。ベッドに寝転がりたい衝動を宥め、とりあえず着替えることにしようと、婚約者からのポストカードを目につく所に置いておいた。
 婚約者という、いっそ奇妙な存在が私の人生の中で浮上したのは、まだ恋愛経験も浅い高校生の時である。比較的裕福な家であったが、まさかベタな小説のようなことが自分に起こるとは考えておらず、両親からのアプローチも話半分に聞いていた。親が医者だとか企業主だとか政治家だとかではない私の家庭で、どうして婚約者なんて存在が出てくるのだろうか。若かりし頃の私がそれについて考えすぎて熱を出したことは、むしろ懐かしい思い出である。
 高校生のときに何度か会ったことはある。しかしながら、互いにそんなに興味がなかったため、好奇心丸出しの両家の親らが「あとは二人で……」と一室に残したその瞬間、彼も私も笑顔を消して好きな事をやっていた。ある意味気を遣わない楽な関係だったと言えるだろう。
 大学生になるのを機に、実家から離れてそこからずっと一人暮らしをしている。母親に「もっといい所を借りればいいのに」と偶に言われる築年数の経った、けれども立地は良いアパートが私の城である。ちなみに婚約者からは「いつ崩れてもおかしくないね」と言われたが、彼が住む訳では無いから黙殺した。その時の私の表情がよっぽどだったのだろう。珍しく彼から謝られることになった。
 そんなこんなで、つかず離れずな関係を保つこと早数年、当時から有栖院家に寄り付かない彼からの手紙は生存報告となったのである。彼の弟さんにごく稀に会うのだが、兄の代わりに毎回謝罪を入れてくれるものだから遣る瀬無い。弟さんが悪い訳ではなく、風来坊な婚約者に非があるのだし、もっと言うと関係に執着しない私が悪いのだ。
 彼が近くにいないことを寂しいと思ったらそれはそれで癪であるし、人を揶揄うことに力を注ぐ婚約者はそのことに気がついたら絶対何か言ってくるだろう。私の反応を見るためだけに日本に戻ってくるかもしれない。そういう人なのだ。私の職場先の、よく物乞いをしてくる狼谷先輩の折り紙付きだから間違いないだろう。
 婚約者の神出鬼没さ、とりわけ何処から話を聞いていたのかと問いたくなるほど人の裏をかくのが好きなあの人は、狙ったように私の家へと舞い込んでくる。しかも間の悪いことに、私が寂しさを思い出したころに。
 来て欲しい、なんてメロドラマにありそうなくさい台詞、死んでもこの口からは吐き出せない。
「相変わらず潰れそうな所だよねえ、おばさんも心配してるんじゃない?」
 招かれざる客である彼は、靴を脱ぐ前にそう言い放った。
「家に帰んない人に言われたくないんだけど」
「名前、なかなか弁が立つようになってきたよね……」
 誰かさんのおかげでね。客用の布団を引っ張り出しながら言ってやると、彼は非常にやりにくいという顔をしていた。彼に分けたせいで晩御飯が半分になり、世話を焼いたから寝る時間も遅くなった私からのささやかな仕返しである。表向きはそう嘲笑ったものの、内心では何故か緊張していた。
 そしてこういう時、安心して眠れると確信してしまった時、私は幼い時のことを思い出す。思い出して、苦しくなって、それで目が覚める。目が覚めた瞬間、隣に彼が寝顔をさらしているのを見て、それがひどく懐かしくて落ち着くのだった。

 誰かに首を絞められている。
 手のひらの湿り具合とか、指の圧力とかが感じられるものではないけれど、誰かに首を絞められている。真綿で、というよりかはサテンだ。つるつるとしていて実態がつかめない。柔らかくていっそ意識を持っていかれそうになる。このままでいいか、と思うのと、やっぱり抗いたいという気持ちがせめぎ合って、じんわりと額に汗をかく。なんとか息をしようと薄く唇を開いて、うまく空気が取り入れられずに、観念してようやく目を開ける。起き上がってうなだれたまま、喉元に手をやった。ここまではいつも通りの流れだ。しかし今夜は、隣にいたはずの彼がいなくなっていた。
 身体の奥で、ぐ、と低い音がした。なおのこと息が浅くなって、しまいには視界も揺らいでくる。またどこか出かけたのだろうか。一晩も明かさずに出かけるなんて初めてだ。張りついた喉の奥じゃ禄に文句も言えないから、口を噤んでまた横になる。もうきっと悪い夢は見ない。彼が隣にいないから、安心することもないだろう。苦しさが尾を引いている。
 喉をさすってそう思っていたら、ふいに部屋が明るくなって甘いにおいがそこら中に充満した。ココアに似た甘い匂いだ。視線を巡らせた先に、彼が、御国が、似合わない神妙な顔でマグカップを両手に突っ立っていた。思わず起き上がって、呆けて彼の顔をまじまじと見る。何時もなら笑うのに、今は怖いほど揶揄ったりはしてこない。
「……うなされてたよ」
 そ知らぬふりはもうしないらしい。御国はベッドに腰かけると眉を下げたまま、片方のカップを此方に差し出してきた。私が黙りこくっているから、彼もまた同じように何も言わない。
 受け取ったカップの中には、深いチョコレート色の海と少しだけ焦げたマシュマロの島がいくつも浮かんでいる。おそるおそる飲み込んでみれば、それはすんなりと喉に馴染んで胃に溶けて行った。シナモンの香りが濃くなって、思わずほっと息を吐く。
「ホットチョコレート……?」
 強張らなくなった喉で言う。御国はかすかに口元だけで笑って、「今回のお土産をちょっとね」と言ったきり、黙ってカップを傾けていた。ベッドの周りのこの空間だけ、穏やかな時間が流れている。
「おいしい?」
「……うん」
「ん、良かった」
「御国……あの、」
「知ってる? チョコレートって媚薬として使われることもあったんだよ」
「ねえ、なんで今それを言ったの?」
 やっと素直にお礼を言えそうになったのに、雰囲気が台無しである。苦笑すると、私の不格好であろう笑い顔を御国は優しい目をして「やっと笑った」と安心しきった声で言った。
「…………」
「わざわざ似合わない渋面作らないでよ。それに、名前はもう少し愛嬌あってもいいんじゃない?」
「……これ、おかわりあるの?」
「あるけど朝にね。ほらもう寝て」
 あからさまに話題を逸らしてもそれが咎められることはなく。意外にもマグカップを洗ってから、御国が隣に潜り込んでくる。彼の冷えたつま先が、決して短いとは言えない時間の間、ホットチョコレートを作るために起き出していたことを物語っていた。
 それに気づいたらなんだか急に、愛おしさがこみあげてきてふふふと笑ってしまった。御国は怪訝そうな顔をして身を寄せて、よくわからないが額を弾いてくる。
 ミルクパンの中のホットチョコレートのことを考えて、今晩にあったことはひみつにしておこうと思った。婚約者が密かに私を心配していたこと、それを上手くホットチョコレートに隠したこと、それがたまらなく嬉しかったことは、彼と私だけのひみつだ。
 夜明けまであと二時間もない。朝が来たら、他人よりも近い人になっている気がするのだ。顔を合わせて朝食を取るのも、そう悪い気はしなくなっていた。月明かりの下、床に落ちる二人分の影がひっそりと重なっている。
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