『もうすぐ帰る』
その一言を最後に電話が切れる。相変わらず強引でそっけない男だな。だからと言って薄情かと聞かれれば、そんなことは決してないのだけれど。
台所に移動して、冷えきった鍋を火にかける。それから同時にパンを軽くトースターで炙りつつ、生野菜を水でさっと流して、その両方を別々のお皿に盛り付ける。ポコポコと鍋が煮立ってきたら焦げ付かないようにお玉でかき混ぜると、湯気と一緒に室内に広がるクリーミーな香りが鼻をくすぐる。ひと掬いした鍋の中身を小皿に載せて口に含み、納得の出来に一人で頷くと丁度インターホンが鳴った。
壁際まで移動して、取り付けられた端末で訪問者の姿を確認する。
「もしもーし、どちら様?」
『俺だ』
「あーはいはい。開いてるよ、入っちゃって」
きっとそうだと察していたけれど、その一言で通じると思っているところが彼らしい。
玄関の扉が開く音を背景にして再び台所に戻り、最後の仕上げに取り掛かる。深めのお皿によそったシチュー、パンとサラダ、それから煎れたての紅茶。ふたり分のそれらをダイニングテーブルに配置して、これで準備は完了だ。
一仕事終えた私が自分用の椅子に腰掛けると、タイミングよく身支度を終えた彼が私の真向かいの椅子に座る。そこがお互いの定位置だった。
「ロウレスは一緒じゃないんだ。またバイト?」
「あ? なんであいつが出てくるんだよ」
「一緒に居るはずの相手がいなかったら、気になるのも当然でしょ」
「チッ……遅くなるから飯はいらねえって言ってたぞ」
機嫌が悪そうに舌打ちをして、渋々相棒のことを話す。実はロウレス本人からとっくに連絡は来ていたから聞く必要はなかったのだけれど、念のため確認をしたら随分と彼の機嫌を損ねてしまったみたいだ。失敗したな、と顔を伏せてテーブルの上に視線を落とす。
それにしても【久しぶり会うんだから二人でゆっくりしてほしいッス! オレってば優しい〜!】なんて、ふざけたメッセージを寄越されるこちらの身にもなってほしい。聞き覚えのある軽快な声で、自分たちをからかうセリフが簡単に再生されてしまった。余計な気を回されて正直腹が立つけれど、そのことに感謝している自分がいるのも事実だった。
スプーンを手にとって、暖かい夕食に口をつける――と、その前に。
「おかえり、リヒト」
「……言うのが遅えよ、名前」
ふ、と小さく笑う彼に釣られて私の頬も緩む。この瞬間は何度味わっても心地の良いひと時だった。
いただきます、の合図と同時に二人での夕食の時間が始まる。嫌いなものには決して手をつけないリヒトが黙々と食べ続けるあたり、今日のご飯も及第点なのだろうと内心胸を撫で下ろす。
複数人での夕食も、もうずいぶんとご無沙汰だ。家では普段、一人で食事をとることが多いから。
「しばらくはここに居られる?」
「明後日にはまた出て行く。詳しくはクランツに聞け」
「……そっか」
世界的有名ピアニストであるこの男は、一箇所に留まり続けるということが難しい。仕方ないことだとわかってはいるけれど、見送る時はいつも寂しい気持ちにさせられる。
自分も興行に付いて行けばいい、なんて言うのは簡単だ。とはいえこれまでの人間関係や自分の生活を全て捨ててまで、目の前の男を追いかけられるのかと聞かれると悩ましい。だから私たちはこうして、各々の生活を送りつつも時々は共に過ごすという曖昧な関係を続けている。
リヒトの今回の休暇は今まさに始まったばかりだというのに、終わりのことを考えるのはよくないことだ。わかってる。明後日ということは、今日を含めれば二日も一緒に居る時間があるというのに。
「そんな暗い顔してんじゃねえよ」
「え? ああ……ごめん……」
持ったままのパンから引きちぎったばかりの欠片を慌てて口に含む。余計なことに気を取られて、手が止まってしまっていたみたいだ。何かに夢中になって周りが見えていないように見えても、こういう時はすぐ気付くんだから全く目ざとい奴である。
「何かあったら俺を呼べ。いつでもどこでも、すぐお前のところに駆けつけてやる。……何故なら俺は、」
天使だから――なんて、聞き飽きたフレーズではあるけれど、リヒトの声で直接聞くと、ささくれた胸の奥がすっと軽くなるような感覚がした。
決して不可能なことを言わない彼がそこまで言うのだから、きっとリヒトはまたここに帰ってきてくれるんだろう。それなら私も待ち構えていよう。できるだけおいしいご飯を作って。
スプーンで掬ったシチューの味は、さっき味見をした時よりも格別のように感じられた。