ビールの匂いがする。
名前ははっと目を覚ました。どうやらひとり、晩酌をしながら寝てしまっていたらしい。ぶるり、と身震いをして、タンクトップの上にカーディガンを羽織る。テレビを消すと、ざーっと、屋根が水滴をはじく音が聞こえる。
雨が降っているのだ、と気づいた。
眼前のグラスに入ったビールは、すっかり泡が消えてしまっていて、口をつけるとぬるかった。
「…まずい、」
やっぱりビールは冷やしたてでないと。と、思い立ち、残り少ないそれを飲み干し、新しい缶を冷蔵庫から取り出す。どうせ明日は休みだし、今夜はとことん飲むぞ、と気合いをいれ、プルタブを引っ張る。ぷしゅ、と気合いの入る音がする。
よく冷えたそれは、名前の好きな銘柄のものだった。少々の期待とともに、口を付ける、それなのに、
「あれ、あんまり美味しくない、」
思わず出たその声は、想像していた以上にはっきり、ひとりきりの部屋に響いた。冷えているはずなのに、好きな銘柄のはずなのに、何故だろう。何故だろう、と思い、あ。と思った。
あ。
瞬間、ぶわりと思い出した。そうだ、いつもどうしてあんなに、ビールが美味しかったのか。思い出した。
呆れた声、くたびれた背広、目の下の隈、
そうだ、わたしはいつもあのひとと、ビールを飲んでいた。
「笹塚さん、」
さっきよりも、ぼんやりした声がでた。頭はさっきよりもすっきりしているのに、不思議だ。
あのひとは、ふたりで飲むビールの美味しさを教えてくれたのに、ひとりで飲むビールの、空虚さは教えてはくれなかった。ああ、そうだ、わたしは、
(わたしはあなたの、重みになりたかった、)
彼の心臓にぶらさがりたかった。口では飄々と、真実をよけてきたけれど、わたしはあなたに、生きていてほしかった。たぶん、それだけだった。本当は、はじめから、それだけだったのに。
思い至ってごろりと寝転がる。一度取り逃してしまえば、二度と届かない。手の届く場所にあったはずのあなたの心臓には、もう届かない。
笹塚さん、わたし、星にはぶらさがれないよ。
確かに自分の上で、隣で、正面で、脈打っていたはずの心臓はどこへいってしまったのだろう。
あつい雨雲に覆われた空の上を思う。思いながら新しい缶をあける。ぷしゅり、くだらない。
[mokuji]
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