「名字、」
ふんわりと、空気に溶け込むような声がした。上を見上げると、想像していた以上に近いところに菅原が立っており、わたしは思わず洗いかけのボトルを取り落としてしまう。
「す、がわら、」
長い間一人で洗い物をしていたせいか、すっかり口は渇ききっていた。嫌だ、鼻歌とか独り言とか、聞かれてないかな。
そんなわたしの葛藤をものともせず、菅原はあっという間に隣に座り込んでしまう。もう試合後のミーティングは終わったのだろうか。だとしたら、はやくしないと。
そう考え至ったわたしは慌てて洗い物の手を再開する。さりげなく洗い終わったボトルの水を切ってくれる菅原にどきどきする。
「上で応援してくれてたの名字の父ちゃんだべ?」
「え!」
何かを言いたそうにうずうずとしていた様子の菅原は、いたずらの種明かしをするみたいにそう言いながらくしゃりと笑った。文学的な表現とかじゃなく、本当にくしゃりと笑うのだ、このひとは。
「あれ、違ったか?さっき偶然ばったり会って、家が近いからみにきたんだ〜って言ってたけど、」
ななななんだ、その情報は。
確かに自宅は今日の練習試合の会場からほど近い場所にあるし、土曜日で、父親は確かに家に居る筈だ。だが、まさかそんなこと、と思いながら電源をオフにしていた携帯電話をあわててオンにする。その途端、メールを受信するバイブが振動し、それを開けば「今日見に行く、」と簡素な父からのメールが入っていた。
「お父さんからメールきてた?」
あたふたと顔色を変えるわたしを面白そうに目を細めてこちらを見る菅原にこくこくと頷く。
「な、なんか変なこと言われなかった…?」
どうしてこうも、父親と学校の友人(それも運悪く想い人!)が会話をするのは気恥ずかしいのだろう。それよりも、余計なことを言われなかったかどうか心配でならない。わたしが菅原を好きだということは一ミリも知らないくせに、どうしてよりによって彼に話しかけたのだろう。まったくもって忌々しい。
「んー、なんか名前をよろしくお願いしますって言われたのと、今度うちに酒でも飲みにこい〜って、」
「!?!?!?」
なんてことを言ってくれたのだ、あの男は。いやでも。今菅原に名前を呼び捨てしてもらえたことはとても嬉しい。だが、それでも、だ。何故よりによって彼によろしくなぞと言ったのだ。他にも澤村とか東峰とかいろいろいただろうに…!
「なんか、彼氏みたいな挨拶のされかたですねって言っといたから大丈夫だべ、」
「!?!?!?」
菅原まで何を言っているのだ。そもそも、何故うちに呼ぶような真似まで。いや、菅原も社交辞令として受け取ってくれているみたいだが、しかも何故未成年にお酒を誘ったのだ。本当に、何故。
「わ、わたしだって菅原と一緒にお酒飲んだことないのに…」
そこまで言って、菅原が驚きに目を見開いたのが見えたわたしははた、と思いとどまる。まてまて待て。今わたし、心の声だだ漏れじゃなかったか?
「…名字は俺と、お酒が飲みたいの?」
まずいまずいまずい。父親のわけのわからない文脈はわたしにもしっかりと受け継がれていたらしい。思わず両手を顔の前でぶんぶんと振る。水滴が飛び散る。
「え、え、えっと…今度二人でお酒でも飲もうよ……なんちゃって……」
「……」
なんとかこの場を切り抜けようと、ギャグ路線までもっていこうとしたわたしは撃沈した。菅原が何やら思案顔になり、黙りこくってしまったのである。
いたたまれなくなったわたしは「これ、ありがと!」と半ばひったくるように菅原の手のボトルを引っ掴むと立ち上がる。「え、ちょ、名字!」菅原の声が聞こえた気がしたが振り返らない。わたしは振り返らないぞ…
「なんか、スガが複雑そうな顔してたけどなんかあったの?」
帰りのバスで隣になった澤村がひそり、と囁いてくる。
「…あは。なんでもないの、ただわたしが死にたいだけだから…あはは…」
「おい、名字!?大丈夫か!?」
尋常ではないわたしの様子に慌てふためく澤村を、菅原がなんとも言えない顔で見ていたことを、わたしはしらない。更に言うなら再度電源を切ってしまった携帯のメッセージ欄に、菅原からの「お酒は20歳まで待って欲しいけど、今度二人で遊園地とかならいいよ、」という文面が送られていることに気がつくのは、まだあと数十分後の話。
[mokuji]
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