ふと、思い立ったとしか言いようがない。
夕食の香りのする住宅街をすり抜け、その奥にある見慣れたアパートへ。見上げれば僅かに灯りの漏れる部屋を確認することができた。
そのまま駐輪場へ回り込むと、彼女の愛用している水色の自転車が目に入る、
とそこで彼女の在宅を確認し、臨也はメッセージアプリを起動させた。
普段はあまり使わない、既読のつくアプリを起動させたのは、らしくもなく急く気持ちがあったからかもしれない。
『今すぐ駅まできて』
いつも通りの、用件だけを告げたメッセージ。すぐに既読がついた。
『無理いま忙しいの』
嘘つけ、どうせ家でのんびりしてるくせに。
小さく舌打ちをした彼は再度、スマートフォンの画面に指を滑らせる。
『助けて、』
簡素な文字列である。
だが、その文字を打った瞬間に既読がつく。そして、彼女からの着信。
三階にある彼女の部屋まで聞こえるはずもないが、念のためマナーモードにしておいてよかった。
電話は数コールで切れ、続けざまにメッセージを受信する。
『え、なに、うそ、』
『まっててすぐいく』
漢字へ変換されることのなかった文字たちが、彼女の焦りを感じさせた。
小さく喉で笑うのとほぼ同時、アパートの扉が開く音が聞こえた。
思った以上に早いそれに驚いていると、続けて階段を駆け下りる足音。
それが地面を踏みしめる音に変わるのと、彼女が目の前に現れるのとほぼ同時であった。
「い、ざや…」
あ。殴られるかな、と思った。
だがじりじりと近づいてくる彼女の唇がわなわな震えてるのを見て、その思考を改める。
そっとこちらに触れる彼女の手は震えていた。
「ああ…生きてる…」
それは必死に平静を保とうとする人間の声だった。彼女はひどく安心しているようでつまりなにが言いたいかというと、殴られることはなかった。
「ごめん、」
普段滅多に使わないその言葉はすんなりと出た。
「本当は申し訳ないって思ってない言い方だね、」
眉をしかめた彼女を改めて見回す。
彼女はTシャツにジーパンという、ほぼ部屋着に等しい格好であった。急いで着替えて出てきたのであろう。そんな彼女を見るのは久しぶりだった。
「…なんとなく、いちばんありのままの姿の君に会いたくなって、って言ったら怒る?」
「…」
「でもこんなに早く出てきてくれると思わなかったよ、」
いつもよりもラフな格好で、自分のために息を切らず彼女は、ひどく神聖で美しい生き物に見えた。
化粧気のない肌にそっと触れたところでやっと、彼女は小さく溜息をついた。
「臨也はいつ死ぬかわからないから、」
「うん、」
「わたし以外に連絡できる友達もいないだろうし、」
「…………うん、」
「だからほんとに、しんじゃうのかもっておもった、」
「……はは、心配してくれたんだね、」
「調子のんなくず」
その辛辣さに笑みがこぼれた。
自分は今、地に足をつけているのだと実感できる、ああ、俺はこの場所が好きだ。
「ねえ、デートしようか、」
唐突な提案に彼女は目を丸くさせた後、赤くなった。あ。可愛い。
「え、じゃあちょっと待ってて、着替えて財布とってく「いいから、」
「え、せめて、財布…」
「いいって。奢るから」
言いながら腕を引くと、彼女はいとも簡単にバランスを崩した。はは、俺がいないと駄目じゃないか。
「一番無防備な姿の君と、デートがしたくてきたんだ、」
そう、たぶん、そういうこと。
混じり気のない、自分のためだけに用意された表情と、体が、欲しかっただけ。
「いこう、名前」
たまにはいいじゃないか、こういうのも。
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