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甘い海で眠る(臨也)




これの続き


どさり、と買い物袋を取り落とした。

「なんだ、とっくに死んでると思ったよ、」

奇妙な車椅子をころころと転がし、その人影はゆっくりと近づいてきた。言葉も出なかった。

「ひさしぶり、元気してた?名前ちゃん、」

待ちわびていた筈の声だった。だが、わたしは泣き出すことも駆け寄ることも、何かを言うこともできずただ呆然とそこに立ち尽くしてしまう。その様子に、彼は怪訝そうに眉を寄せる。

「…随分といろんな人と仲良くしてるみたいじゃない、新羅にセルティに…挙げ句の果てにはシズちゃん?なに?もう他人を馬鹿にしながら生きるのはやめたの?」

指折り数えながら、そう告げた彼はわたしの表情が硬くなっていくのを確かめると、途端に笑みを深くした。そう、その反応が見たかったんだよ。とでも言うように。

彼が池袋から姿を消して数年が経っていた。車椅子に座っている点を除けば、臨也の方に大した変化はないように見える。だが、その中身までを窺い知ることはできない。静雄に、彼が化け物と評した男に、そしてその男を信じた人間に敗北したこの男は、どんな思いでこの数年間を過ごしてきたのだろうか。

「何も言わないところを見ると図星なのかな?へえ、君のことだから、俺という支えを失って更に孤立して、自殺の一度や二度くらいはかってくれてると思ってたんだけど、どうやら見当違いだったみたいだね…いやでも、そうでなくちゃ。これだからこそ人間ってやっぱり面白いよ、」

嘗てのわたしは、この男を除くすべての人間を、下らない人間としてしか見ることができなかった…否、そうしないと生きてゆくことができなかった。自分の正当性を肯定しなければ、周囲が自分より劣っていると思い込まなければ、そうやって自分を可愛がってあげなければ生きてゆくことができなかったのだ。自分のくだらなさから目をそらすことでいっぱいだったのだ。

「…今でも、自分が世界で一番正しいんだと、思い込まなければ生きて行けなくなる様な気がするときもあります。」

カラカラに乾いた唇から、やっとの思いで絞り出したのはそんな言葉だった。そんなわたしを、彼は笑顔を貼り付けたままで、頬杖をついて見つめている。

「臨也さんが居なくなって、わたしは確かに孤立しました。下らない人間ばかりの世界で、誰も自分を理解してくれない世界で、どうやって生きればいいのかわからなくなりました…でも、」

そこで一度言葉を切る。まっすぐに臨也を見つめ返すと、彼の方もまた挑発的な笑みを浮かべた。その笑顔は、わたしのしる限りでは崩れたことがない。

「でも決して、そうではなかった。ある日気づいたんです。わたしのことを誰もわからないように、わたしの方も、本当は誰の気持ちもわかっていなかったのだと、」

それを証明するように、周囲の人間は死にかけの日々を過ごすわたしを懸命に救おうとした。何時間も話を聞いてくれた静雄、気晴らしにバイクに乗せてくれたセルティ、温かいコーヒーでいつでも迎えてくれた新羅。
気づかぬうちに凍っていた海面は、わたしの知らないところで解け始めていた。そうしてわたしは、精一杯息継ぎをした。

「わたしには、わたしのことをわかってくれる人が必要だった。そしてそれが臨也さんなのだと、信じて疑わなかった。でも、よく考えてみたら、わたしは臨也さんのことを何もわかっていなかった、」
「…なに?今なら俺のことがわかるとでも言うの?」
わたしの言葉に、臨也は鋭く眼光を光らせた。初めて見るその表情に、一瞬だけたじろぐが、構わずわたしはゆっくりと臨也へと近づいていった。

「わかりません。でも、わからないなりにずっと、あなたのことばかり考えていました………ねえ臨也さん、本当は傷ついていたんですか?」
「…何を言ってるの?」
「傷つかないようにわたしが人間を憎んだように、あなたは傷つかないように人間を愛してたんですか?」
「ははは、いうに事欠いてそんなこと?長く考えた割には稚拙な答えだね。教えてあげる、答えは、ノーだ、」

ぴしゃりと言い放った臨也の真意が読めなかった。だが、その表情に先程までの余裕も笑顔もないこともまた、事実だった。

「…わたしは、わたしの主観でしか物事を考えられない人間だから、」
「……だからなに?」
「もしわたしが、臨也さんの立場だったなら、それは酷く苦しいだろうなって、」
「…ははは、本当に名前ちゃんは、ばかだねえ、君はもっと頭のいい子だと思っていたのに、」

憶測で人をはかることは、ひどく恐ろしい。そしてそれを伝えることは、もっと恐ろしい。それでも、生まれて初めて人のことを考え、必死に思い出そうとした。臨也がいつもどんな顔をしていたのか、どんなことに喜びを感じていたのか、どんな風に笑っていたのか。

そんな風に人を思ったのは初めてで、同時にその相手が臨也でよかったと改めて思った。おそらく半分も、言葉にできていないけれど。

何も言わなくなったわたしを、怪訝そうに見つめ、臨也は態とらしく溜息をついた。

「…じゃあ、俺は行くから、精々化け物たちとうまくやるといいよ、」

言いながら、臨也は車椅子の向きをくるりと変えた。音もなく去っていくその姿は、どこか寂しげに見えた。だが、追いかけることはできなかった。


いつかまた、凍りついた海面に身をぼろぼろにされる日もくるだろう。それでも、わたしは知っている。息継ぎの仕方を、知っている。この海が本当は、甘く優しかったことを知っている。

あの日の自分の死体を海底に見下ろしながら、わたしは今日も夢をみる。誰かの体温のような、この甘い海で微睡み続ける。いつかこの海で、あなたと同じ夢が見てみたい。




2017.8.31 逆臨也の日にちなんで。

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