これの続き
「おいトラ男、」
予想外の人物に呼び止められた。その声色は敵意はなかったものの猜疑心や不信感を孕ませており、ローは小さく眉を寄せた。
「なんだ黒足屋、」
「なんだじゃねえよ、」
この男が不機嫌になる理由に、ローは心当たりがなかった。そんな彼の様子に痺れを切らしたのか、サンジは静かに煙草の火をつける。
「お前、ナマエちゃんとなんかあったのか、」
ふうっと煙を吐いた後のその言葉にローは成程、と思う。確かにあの夜以来、彼女とローは何度か酒を酌み交わしている。ナマエの方もすっかり心を許したらしく、ローさんローさんと日中も纏わりついてくる様子が頻繁に見られるようになった。確かに麦わらの一味側から見れば、何かあったと考えるのが当然かもしれない。
「…別になにもねえよ、」
「嘘つけ、じゃあなんであんなにお前に懐いてんだ?大方夜一緒に酒でも飲んでんだろ?」
サンジには内緒ね、と悪戯っぽく笑う彼女の瞳がローの脳裏に浮かぶ。残念だったな、どうやらばれてるみたいだぞ。
「…だったらなんだ、俺の方はいつもそこまで酒は飲んじゃいねえよ、」
「そういうことを言ってるんじゃねえよ、お前ナマエちゃんの不眠症にかこつけて変なことしてんじゃねえだろうな、」
なんだ、不眠症のことまでばれてるのか、とローは内心舌打ちをする。あの女、詰めが甘すぎる。それとも一味の胃袋を掌握するこの男が鋭すぎるだけだろうか。
「…なにもしてねえよ、むしろそこまで知ってるならお前が一緒に酒を飲んでやればいいだろ、」
「……ナマエちゃんはクルーのみんなには心配かけまいと隠してるんだよ、そんな彼女の気遣いを俺がぶち壊すわけにはいかねえ、」
居心地悪そうにサンジが煙を吐く。あの女、意外と大事にされているらしい、とローはナマエへの認識を新たにする。
「とにかく!ナマエちゃんを泣かせたら殺す!それだけは覚えとけ!」
「…肝に銘じておく、」
物騒な言葉と裏腹に切なげな顔をしたサンジはそれだけ告げると、キッチンを後にした。
「おお、ローさん。なんだか久しぶりだね、」
それ以来なんとなく、キッチンを訪れることが憚られたローが次に彼女と会話したのは、3日ほど後のことであった。
「…もう来てくれないのかと思ったよ、」
言いながらナマエが眉を下げる。この3日あからさまに避けていたことが効いたらしい。珍しく弱々しく見えてしまった彼女にローはドキリと気まずくなる。
「ああ…悪かったな、」
「ううん、全然!」
この船に乗ってから初めての謝罪の言葉かもしれないそれに、彼女の顔がぱっと明るくなる。その表情が余計にローに罪悪感を募らせる。
「ローさんがきてから、ひとりで飲むのが随分退屈になっちゃって…だから今日は来てくれて嬉しいよ」
そう言いながらトクトクと音を立てて酒を注ぐナマエは、トンと音を立ててグラスをローの前に置く。
「…わたし、お酒を注ぐ音って好き。心臓の音みたいでなんだか安心する、」
今夜の彼女は些か饒舌らしい。いつもよりもどこか楽しげに、それでいて少し悲しげに笑う。その姿にローは何も言えずにいた。
「………眠れなくなるまでは、わたし、夜がこんなに長いだなんて知らなかったの。」
何も言わないローに畳み掛けるようにナマエは言葉を紡ぎ続ける。その視線はグラスに落とされたままで、ローのそれと絡み合うことはない。
「ようやくひとりで長い夜をやり過ごせるようになった頃、ローさんが現れて………おかげで、ローさんが居ない夜が今度は長く感じられるようになっちゃった、」
そこまで言った彼女はわたし、今日はなんだか喋りすぎだねと首をすくめてみせる。
「……それは他の奴でも、代わりがきくのか?」
「え?」
「たとえばここにきたのが黒足屋だとしても、お前の夜は短くなるのか?と聞いている、」
ローがようやく絞り出した言葉に、ナマエは瞼を伏せて暫し逡巡した。
「…そんなこと聞くなんて、ずるいなあ」
ローと目を合わせないまま、ナマエはぼそりと呟く。
「…質問に答えろ、」
煙に巻かれてしまいそうな雰囲気を察したローがそう呟くと、彼女はやっと困った顔をする。
「…わたしは、今ここに居てくれるのがローさんでよかったと思ってるんですけど…」
どうでしょう?と眉を下げながら聞く彼女はそれから恥ずかしくなったらしい。瞬間、さっとその頬に赤みが増す。
「…おい、ナマエ、」
初めて名前を呼ばれたことでようやく顔を上げたナマエの瞳は何処か潤んでおり、それはまるで海のように月の光を反射していた。その姿に、ローはどうしようもなく庇護欲をそそられてしまう。
何をしてるんだ俺は、とか、同盟相手のクルーだぞ?とか、此処は自分の船ではない、とか、様々な思いがローの脳裏に浮かぶ。それらを振り捨てるように椅子から立ち上がると、彼女が驚いたように肩を震わせる。
手首をぐい、と引き寄せた瞬間こぼれ落ちた涙に、ああ、黒足屋に殺されるな、と苦笑した。大きく見開かれた彼女の瞳に何処か罪悪感を感じる。
「…目を閉じろ、」
半ば脅しのように響いたそれに、彼女はぎゅっと目を閉じる。怯えたようなその様子にニヤリと小さく笑みを漏らすと、ローはそっとその瞼に口づけを落とした。
[mokuji]
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