勇気をありがとう





俺の心を埋めたのは安堵か焦燥か。

俺の予想は見事的中したらしい。この世界の俺は行動が早かったようだ。
柳先輩の今までの対応を見れば、そういう関係になったのがここ二・三ヵ月の話でないのは容易に想像出来た。

しかし、自分の思い違いではなかったという安心感と共に込み上げてくるこの感情は何だ?
まるで自分の欲しかったものを先に取られたような、そんな焦りと苛立ち…。

…ああ、そうか。そういう事なのだ。

「赤也…?」

黙り込んでしまった俺の顔を覗き込む柳先輩。

よくわかった。俺はこの世界の自分自身に嫉妬しているのだ。
俺が手に入れられないものを、きっとここの俺はいとも簡単に手に入れたのだろう。何て羨ましい事なのだろうか。

「…柳先輩、聞いてもらえますか」

自然と口に出たそれは許可を得ようとしている物では無くて、それを心得ているのか柳先輩は何も言わなかった。

自分の世界のこの人に伝える事なんて俺には出来そうにないから。だから、それならせめて。

「俺、柳先輩のこと好きなんですよ」

せめて、ここの柳先輩に位伝えたい。そう思った。

それを聞いた彼は驚いた様子も無くて、ただ静かに俺の言葉を受け入れている。

その空気が何だか苦しくて、俺が再度口を開こうとしたその時。「だめだぞ」という柳先輩の言葉がそれを遮った。
何がだめなのかと、そんな気持ちを込めて柳先輩を睨めば彼は困ったように笑いながら続ける。

「お前は逃げているだけだ、らしくないな。負けるのがわかっていても挑むのが赤也だろう」

「そんなの、」

そんなのテニスだけだ。
それを恋愛でも出せなんて無茶を言う。

「それに、お前のそれを受け入れたりしたら赤也に申し訳ないからな」

冗談まじりに続けられた言葉にはどこか寂しさが見えた。
ああ、良かったじゃんここの俺。お前柳先輩にめちゃくちゃ愛されてるよ。

「そ、すか…」

同じ「切原赤也」でも、やはりこの人からしたら違うのだ。
何だか虚しくなって俯く。

「その様子だと、まだ気持ちも伝えていないのだろう?」

突然図星を付かれて肩が揺れた。
しかし返せる言葉が無い。
俺の様子を見て肯定と判断したのか柳先輩の声が再び耳を叩く。

「一度、打ち明けてみればいい。案外上手く行くかもしれないぞ?」

無責任だと思った。
いくらここの柳先輩が受け入れたからと言って、俺の世界の柳先輩も受け入れてくれるなんて限らないのに。

「勇気を出せ、お前ならやれるよ」

『お前ならやれるよ』

柳先輩が紡いだ言葉が以前自分の世界の柳先輩に言われたそれと重なった。
何なのだ、これは。

「…柳先輩、俺戻れたらちゃんと伝えますから」

俯き加減に、それでもしっかり柳先輩の言葉にそう返せば「偉いぞ」とでも言うかのように頭を撫でられた。

「頑張れ」


ただ一言。
それが合図であったかのように、頭を撫でてくれていた先輩の気配が消えた。

ばっと慌てて周りを見れば、もうそこは保健室の中ではなくて。
目に入ったのは今朝柳先輩に確認する!と決意を固めた自分の部屋だった。

時計を見れば8時を少し回ったところ。
ゆっくり部屋を見渡して、そして今朝見た時にはあった物が無くなっている事に気が付いた。

写真立てが、ない。

…帰って来たのだ、自分の世界へ。

余りにも不思議な出来事だったせいで自分は夢を見ていたのでは無いかと思った。
しかしそれを否定するようにカレンダーの日付は進んでいる。夢では無いのだ。

ほっと一息付くのも束の間に、廊下から母ちゃんの大声が聞こえてくる。

「赤也ー!あんた今日部活行かなくていいのー!」

その声に背中を押されるように、俺は慌てて家を飛び出したのだった。