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あたたかい手


痛い程の日射しを受けながら、ここ最近で歩き慣れた道を進む。

自分の横を歩く愛犬からはよほど暑いのだろう、懸命に呼吸をする音が聞こえていた。それに混じって聞こえてくる音楽が綺麗だ。

幸村先輩に「会ってもらいたい人がいる」と言われたあの日から、もう既に3ヶ月が過ぎている。あれから学校終わりに柳さんの家を訪ねるのが俺の日課になっていた。
定期的に現れる俺にはじめのうちは戸惑っていたようなあの人も、次第に心を許してくれたのか行くたびに頭を撫でてくれるようになり、それが嬉しくていつの間にか通うようになっていたのだ。

愛犬が止まりそっと手を伸ばす。そこにいつもと同じ表札があることを指で確認すると、その下にあるインターホンを鳴らした。
暫くして家の中から階段を降りる音と、それに続いて扉を開ける音が聞こえてくる。

人が出てきた気配はあるが声をかけられる事はない。
もう慣れたことだった。 やがて足音が近づいて来たと思うと頭に手の感触を感じる。ああ、よかった。この手は柳さんのものだ。

「こんにちはっス!柳さん!」

相手が彼だと確信してから俺は挨拶をする。
以前扉が開く音を聞いて元気に話し掛けたら実は柳さんのお姉さんでした―という事があったからだ。
…あの時は流石に恥ずかしかった。

柳さんは俺の挨拶を聞くといつも手を引いて家の中に招いてくれる。
この時が俺はとても好きだった。この人の少しひんやりした手がとても心地いい。
そうな事を考えていると突然彼の歩みが止まった。何だろうと思っていると左手に触れられる。ここで俺はやっと柳さんの言いたい事がわかった。
この人の父親が犬アレルギーだから家の中に犬を入れてはいけないと幸村先輩に言われていたのを思い出してリードを柳さんに預ける。暑い中待たせるのは可哀想だけれどルールなのだから仕方ない。

「そう言えば柳さん!聞いて下さいよー…」

部屋へ続く廊下を歩きながら話し始める。
この人の家に来て、1日の出来事を報告するのがもうある種の習慣になっていた。
柳さんは文句も言わずにただ静かに俺の話を聞いてくれる、まあこの人は話せないから当たり前なのだけれど。でも俺はそれが凄く嬉しかった。

だって俺の周りの奴は大抵普通に俺の言葉を聞いてくれないから。
返される言葉には所々にどこか同情の色が見えて、それがとても嫌だったのだ。

俺は同情してほしくて話している訳ではないのだから。

その点で言えばこの人より幸村先輩の方が特殊だったかもしれない。
初めて中庭で出会い、目のことを話した時の彼の反応は「そっか」の一言だったのだから。
幸村先輩の名誉の為に付け加えると彼はその後しっかり「何か手伝える事があれば気軽に呼んでね」とフォローはしてくれた。その言葉通り、何かあるごとにあの人は俺を助けてくれている。それでも彼から同情とかそんなものは感じなかった。

そんな幸村先輩からの"お願い"に迷わず頷いて、結果この人と出会えたのだ。

柳さんといる時間はとても落ち着く。そんな時間を掴む機会をくれたあの人には本当に感謝している。…面と向かっては言えないが。

1つ1つ1日の出来事を説明する俺の手を引きながら歩いていた柳さんの足が止まった。
どうやら部屋についたらしい。一旦口を閉じると肩に触れられ座るように促される。素直にそれに従えばふかふかした物の上に腰を下ろすこととなった。

座ったまま沈黙が流れる。繋がれていた手をぎゅっと握られて、柳さんが話の続きを催促していることに気付いた。

これは俺達の感情表現だ。

最初のうちは2人で話すなんて事をすればただただ時間が流れるだけだったが、この3ヶ月で意志疎通を出来るようになったのだ。

触れる手は大切な言葉。

だから俺達は2人で話す時には繋いだ手を離さない。

強く握られるのは柳さんが何かを欲しているサイン。その内容は時と場合で変わるけど、今回は話の続きで間違いないだろう。
そう考えて話し始めれば偉い偉いとでも言うかのように頭を撫でられた。
どうやら間違いなかったらしい。

「そういえば柳さん、今日ここに来るまでの道で音楽が聞こえて来たんスよ。何か知ってますか?」

そう聞いた途端緩められる手。これは柳さんが困っている証拠だ。
この人はあまり家から出ないと聞いていたので知らなくても無理は無いかもしれない。

「そっスか…凄く綺麗な演奏だったんスよ。あ、もしかしたらまだやってるかもしれませんし聴きに行かないっスか!」

突然大きな声を出した事に驚いたのか、柳さんの身体が揺れるのがわかった。
更に緩む手に相手が困っているのを知りながらも相手が居るであろう方向をじっと見つめる。

と、はあ…という溜息が聞こえてきた。

立ち上がる雰囲気に笑顔になるのがわかった。
とんとんと肩を叩かれる。
つまり「行こう」という事だ。

「ありがとうございますっ」

慌てて立ち上がれば柳さんが笑うのがわかった。
手を引かれるままに外に出る。外で手を繋いだままなのは何だか子供みたいで恥ずかしかったけれど、柳さんと散歩が出来たという事実に何処からともなく音楽が聞こえてくるまで俺の頬は緩みっぱなしだったのだった。



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