おどろくほど寒い街で船をおりたとたんから肌が凍ってしまいそうだった。雪が深く深く積もりすべてが長い丘のようにみえた。もちろん地の利なんてないわれわれはその雪道をはてなく歩いていくはめになった。
 幸いさむがりの航海士があらかじめ言いつけたからわたしはぶ厚いコートと帽子に頼ることができたが、無謀な船長や操舵手はうーうー唸り震えていた。「ほら、私がいったのに」ラフィットさんが知らんぷりをして顎をあげた。

 ふだんより白くなる自分の髪をそっと隠した。季節で毛の色がかわるのがなんだか恥ずかしかった。故郷より奥深い雪に帽子もかぶっていたから、きづかれることはないかもしれないけど。



 どこか遠くではなし声が聞こえた。街の方向ではない。あたりをみまわすとひょこり長く伸びた耳が木々をよこぎった。粉を散らす森をかけぬけるとその気配は明瞭になった。木の陰に二匹のうさぎがいた。一匹はわたしの肩くらい、もう一匹はそれよりちいさく、わたしと目が合うと逃げ出した。「まって まって まって、ねえ」残った一匹とわたしの声がおなじ言葉を、うんと小さいその小兎をおいかけるように丘をころげた。雪がすいこまれるようにしっとりした岩穴に彼は入っていった。わたしが足をとられそうになりながら、ゆっくりおりたその場所は、大きく暗い彼らの巣であるようだった。あとから走り出したもう一匹は、わたしより先に木々をかいくぐり、いつの間にか岩壁に入っていた。雪の中立ち尽くしたわたしは耳の横をおちる粉雪の音をきいていると、湿った穴から年老いたうさぎがでてくるのに気づいた。わたしよりすこし低いくらいの身長で、白いひげが細くちぎれそうに伸びていた。ラパーン。と巣穴からこどもの声が聞こえた。一番最初に逃げ出した小兎だ。「ラパーンだよ。きみは?」わたしは切れた唇を寒さで震わせた。老うさぎはわたしを招き入れた。


 岩壁の中はとても広く、雪を通さないそこはぽっかり切り離されたように静かだった。隅に小さな火がとってあった。外の景色をよく見える範囲でわたしたちは座り込んだ。
「おじょうさん、きみはハネウサギじゃないか」
 ずばり当てられてわたしの顔は真っ赤になった。手についた粉雪が一瞬でとけていくのが無性にどきどきした。じゃれついた小兎が老兎にしがみついた。「おじいちゃんハネウサギって?」「春の島に住むうさぎだよ」

「春?ずっと春なの?この島の冬みたいに。じゃあ、ずっと花があるの?」
「あるよ。でも、ちいさな冬はあるから、そのときは花もかくれちゃうの。こんなには降らないけど」

 小兎の目はまんまるで、真っ白な毛にお月様のように浮かんでいた。氷の国でくらす彼らの耳はわたしのよりはるかに白い。わたしは膝を抱えて座りなおした。

「この林の陽の当たらないところなど一年中溶けやしない。根雪を掘ろうと爪先がこおることもない」
「でもここは静かですね」
「静かなわけがあるもんか。おかしな人間が悪政をしいて住人のうめき声が土に滲んでばかりだ」

 耳を澄ますと氷の粒が木々に当たる音が聞こえる。寒い国のとがった屋根を想像した。分厚い屋根が並ぶ町は、やわらかさを感じなかった。頭の芯が冷えてゆくようだった。


「街のようすがおかしいな」

 老うさぎがはっきりした声を出した。彼は外をのぞいて瞼をゆがめた。吹雪は少し弱まっていた。わたしは自分の膝を見つめる。

「外のラパーンたちにすぐに巣に戻るよう言ってやってくれ。おじょうさん、ひとりで来たわけじゃあるまい。この島にはだれかと訪れたのだろう?」
「わたしの船の人たちがいます」
「無事を確認しに行ったほうがいいかもしれん。怪我でもしているかも」
「ごめんなさい、でもきっとあの人たちのせいかも」
「お嬢さん」

 影がついた。おじいさんのしなびた体毛がこわばった。わたしがまばたきをして振り返ると、帽子をふかく被ったラフィットさんがいた。黒いコートには均等に砂糖がまぶしてあるようだった。

「すぐに変なところにいるのはあなたの癖ですか?」

 わたしが脚をもつれさせて立ち上がろうとすると彼はもう歩き出していた。さっきまでほんのり暖かった洞窟の中が、きづいたら刺さるように寒い。

「ありがとう、なかに入れてくれて。ごめんなさいもう出ないと」
「ああ気をつけて。どうか無理をしないで。おせっかいがあるんだ」


 後をおいかけると彼の青白い顔が微かに赤く腫れているのが見えて、わたしは自分の両の指をすりあわせた。なんだかいいものを見た気になった。触れるわけでもないのに暖かくない自分の指を残念に思った。ラフィットさんは鼻先を隠すように顔をかたむける。

「会話ができるんですね。便利かどうかはさておき」
「ラフィットさんも鳥さんとおはなしができますでしょう?」
「それだれにきいたんですか」
「バージェスさん」
「あまり鵜呑みにしないように」
「否定はしないんですか」

 小さな花みたいに彼の歩いたあとには血が落ちていた。それは長いリボンのように続いていた。 耳を撫でるやさしい忠告は、今わたしこそ思ったことだった。お嬢さんこれだけはおぼえておいたほうがいい。君のいるところはふつうじゃないよ。でもちっとも悲しいとは感じなかった。帽子を被る必要がないくらい、この吹雪の中ひとたび彼が羽を広げてどうして、私に見分けられるだろう。このリボンだけが目印だ。


「ネーニアおそいですよ」
「まって。まってください、急ぐから」


 灰を飛ばす街を振り返る。わたしたちは反対側に向かって歩く。もうすでに船長達は船に戻り始めているのだろうか?白で覆い尽くす景色にこんなところ我々が来ずとも滅んでいたのだと、思うしか、わたしには。