些細なきっかけだ。
俺が、桜を守らなきゃ、と思ったのは。
母さんが死んで、たったひとりいないだけなのに、家は広く感じた。
寝室から響く赤ちゃんの声が聞こえると、父さんは慌ててなだめに行く。
そうするとリビングにはひとりで、益々がらんとしていた。
父さんに無理させないように家の手伝いをした。
今までやったことなんてないから、失敗ばかりで、父さんに余計な世話までかけてしまったこともある。
時々泣き叫ぶ赤ちゃんに、俺はどうしていいかわからなかったけれど、泣きながら、こちらに一生懸命手を伸ばして、彼女は俺の、子供の指を握った。
小さな、小さな。
折れてしまいそうな、爪楊枝みたいな指を、俺は大事に握り返した。
だって守らなきゃ、簡単に壊れてしまう。
「つーちゃ、」
言葉を覚えて、やっと歩けるようになった頃、手を繋ぎながら、俺たちは散歩をした。
小学生を卒業したかしないかくらいの俺の一歩と比べて、彼女は何歩も歩いた。
ゆっくり歩いて公園に辿り着くまでに何分かかったかな。
きっと大人だったらもっと遠くに行けただろう。
遊びたそうにうずうずする彼女に遊んできなよ、と言うと、手を離して、砂場に走って行った。
よたよたと覚束ない足は案の定絡まって、びたん、と彼女は転んでしまう。
「さくら!」
慌ててかけよれば泣いていなくて、少し安心する。
立ち上がらせて砂を払って、大丈夫?痛くない?と何度も聞いていくうちに目は潤んで、堰を切ったように急に泣き出してしまった。
「さくら?」
わんわんと泣く彼女は怪我はしていなかったけれど、どうして泣くのか俺もわからなくて、漸く抱きかかえて、とにかく家に帰ることにした。
道すがら、彼女はずっと泣いていた。
痛かったね、大丈夫だからね、お家に帰ろう、お家に帰ったらおやつ一緒に食べて、一緒にお昼寝しようね。
口々に色々言ってみたけど、泣き止む気配もなく、俺も涙が出てきた。
不甲斐なかった。
守ると決めていたのに、泣き止ませることも出来ないなんて。
泣いて、しまうなんて。
ぐずぐずと鼻を鳴らして家の玄関に着く頃、彼女は、泣き止んでいた。
いつ、泣くのを止めたのか、俺にはわからない。
「つーちゃ」
「……さくら、いたくない?へいき?」
「つーちゃ、いたいいたい?」
「おれ?」
「つーちゃ」
彼女は俺をずっと見て、拙い言葉で、俺の名前を読んで、心配してくれていた。
あの小さな紅葉で、ぐしゃくしゃになった俺の頬に、手をあてる。
何ともない俺を、ただ情けなくて泣いていた俺の、心配をしてくれていたんだ。
そうしたら余計涙が出てきて、理解出来ない彼女もきっと悲しくなって、またふたりで家の中で泣いて、そのまま泣きつかれて、ふたりで、寝てしまった。
守らなきゃいけない。
こんなにも愛おしい存在を、俺は。
「それでシスコンが生まれた訳か」
ずる、とアイスコーヒーを啜った蒼志に、あんな可愛い子がいたらそうならざるを得ない、と言い加えると、はいはい、と軽く流されてしまった。
何だよ、聞いてきたのはお前の癖に。
「俺はそう言う経験ねぇからな」
「小さい頃から緋里くんしっかりしてそうだもんねー」
「全然泣かなかった」
部屋の中で、緋里くんと桜の遊ぶ声が聞こえる。
さながら俺と蒼志は主婦の井戸端会議みたいなものだ。
「ま、今は緋里くんの新たな一面知れて良かったんじゃない?」
「結構子供好きだったこととかな」
「桜も楽しそうだから俺も嬉しいけど」
からん。氷の少し溶けた音。
「おかわりは?」
「いる」
グラスを手にとって、台所に向かう。
ああそろそろおやつの時間かな。
「桜、緋里くん、おやつ食べよっか」
笑顔でいい返事を返してくれたふたりに、俺も蒼志も、自然に笑みを浮かべた。
end.
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