「大丈夫よ、怖くないわ、泣かないで」
母の、口癖だった。
至る所に青痣を作って、それでも気丈に笑っていた、母。
実の父は、最低な男だった。
酒を飲み、暴力を振るい、金を奪う。
俺が生まれてすぐ離婚したはずなのに、俺と母が住む古いアパートに時折やってきては、暴れていった。
母はすぐに俺を押入れに閉じ込めて、隠して、守った。
見えない、だけど、聞こえる父の怒声と母の悲鳴に、何も出来ずに、声を上げずに泣いた。
そして父が帰っていくと、母はぼろぼろの姿で、笑って、俺を抱きしめる。
「大丈夫よ、怖くないわ、泣かないで」
絶対に、母は泣かなかった。
とても綺麗で、強い母親。
でも、俺には見えていた。
最高の母と、最低の父の指に、結ばれている糸を。
どうして。
触ろうと思えば触れるそれを、俺は敬遠していた。
もし、おかしなことをして、母にばれてしまったら。
何より、母を失うのが、怖かった。
それから暫くして、母は、時々知らない顔を見せるようになった。
いつまでも母であったけれど、少女のような、そんな、淡い顔を。
「あのね、紹介したいひとがいるの」
「うん」
「今度の日曜日、会ってくれる?」
「いいよ」
俺がすぐに頷くと、母はとても嬉しそうに、それこそあんな父には絶対見せたことがないであろう笑顔で、笑った。
…それだけで、俺は、すごく、嬉しかった。
「藤井さん、って言うのよ」
「はじめまして、よろしくね」
「うん、…よろしくおねがいします」
優しそうな、男のひとだった。
父とは、正反対で。
二回、三回、と会う回数を重ねてくうちに、このひとがお父さんだったら、何度も思っていった。
「君のお母さんと、結婚したい」
そう言われて、凄く、嬉しかった。
でも。
…でも。
母と父の、糸は切れていなくて。
このひとの、糸も、誰かと繋がっていて。
このひとが、繋がっているひとに気付いてしまったら。
母は、あなたの、運命の相手じゃない。
どう足掻いたって、母は、捨てられてしまう。
でも、母が、笑っていたんだ。
あの、母が、喜んでいたんだ。
「守ってあげたいんだ、駄目かな?」
「………いいよ」
だから。
だったら、俺が。俺が、触れば、良い。
そうして、母の、赤い糸を、切った。
はさみで、簡単に、呆気なく、本当に糸のように切れた。
…こんな、ことで、変わってしまった。
ごめんなさい。
それでも、母に、幸せになってもらいたかったんだ。
だいすきな、おかあさん。
「おかあさん」
「どうしたの?はさみなんて持って、」
「だいじょうぶだよ、こわくないよ、」
がしゃんとはさみが落ちて、それを見た母は、ぎゅう、と、力強く俺を抱きしめた。
それから。
「なかないで」
初めて、母が、泣いた。
← top →