03
「ふんふんふーん」
ぺたぺたとスリッパを踏み鳴らしながら、犬飼は風紀室を目指して歩いていた。雫に会うのは一週間ぶりで、その間はずっと避けられ続けている。
そろそろ我慢の限界が来ている。いつまでも待てが出来るほど、利口な犬ではないのだ。
「ふふふふーん」
雫を逃がさないようにどう動くか。それを考えるだけで気分が上がる。
視界に強そうな人間が映ろうと、今はどうだってよかった。あんなのを相手にしている時間がもったいない。
「ふんふふん、ついたー」
風紀室、雫がいる場所。ほぼ見回りで留守にしていることが多いが、雫は今ここにいる。
すん、と匂いを嗅ぐ。嗅ぎなれた噛みつきたくなるような匂い。にんまりと笑みを浮かべて、犬飼はドアを開いた。
「しーずくちゃーん」
「は?」
「おつかい!」
ずい、と雫に鞄を押し付け、ついでにそのままの勢いで抱きつく。驚きすぎて固まったままなのをいいことに、雫の首筋に顔をうずめてスンスンと嗅ぎ、がぶりと噛みついた。
「いった! このアホなにしとんねん!」
「なにって、雫ちゃんたべたい」
「痛いわ、おつかいってなんやねん」
「そのかばんに大事な書類と雫ちゃんのプレゼントが入ってるってご主人様が言ってた」
「プレゼント?」
「オレは中身知らないよ、見たらダメって言われたもん」
あの魔王様が何の前触れもなくプレゼントを渡してくるとは、何か裏があるんじゃないかと疑いを持ってしまう。それに、わざわざ犬飼におつかいを頼むのにも引っ掛かりを感じていた。
雫はしばらく鞄を持ったまま開けるのを躊躇っていたが、書類が入っているなら確認しなければならない。仕事をするから帰れと言えば、抱きついたまま離れない犬飼も従うだろう。
「……」
書類は確かにあった。書類以外の圭太からのプレゼントとやらもあった。書類だけを抜き出して鞄を閉める。
「ねー、プレゼントなんだったの?」
「ええからはよ帰れ」
「見られたくないやつ?」
「書類もプレゼントも極秘や、ほら出て行き」
渋々立ち上がった犬飼にほっと息を吐く。その一瞬を犬飼は見逃さなかった。
「隙ありー」
「おま、まて!」
「んあ? おもちゃ?」
犬飼の手にしっかりと握られているおもちゃ――可愛らしいものではなく、男性器を模した大人の玩具である――が、風紀室にいた風紀委員の目にもしっかりと見えた。
「アホちょっとこっち来い」
「きゃー」
楽しそうに仮眠室へと雫に引きずられていく犬飼を見送り、風紀委員たちは我に返る。
このままここにいるのはまずいのでは――。
「委員長、ごゆっくりー」
そそくさと自分の部下たちが見回りに出かけたことなど知らず、雫は犬飼から玩具を取り上げるのに必死になっていた。
「おい、それ返せ!」
「これで遊んでくれるんじゃないの?」
「欲しいんやったらそれもうやるから自分の部屋戻れ」
「やだ」
帰るどころか服を脱ぎ始めた犬飼に雫がブチ切れ、見回りから帰ってきた風紀委員たちが仮眠室から聞こえる物音に、また慌てて風紀室を飛び出していく騒動となった。
翌日、疲れ果てた雫と、そんな雫にべったりくっついてご機嫌な犬飼の姿が目撃されるが、特に大きな騒ぎにはならなかった。二人の関係より飼い主である圭太が明衣と一緒にいる時間が増えて機嫌がいいのと、雫と一緒にいる時の犬飼は大人しいという情報ばかりが先行しているのだ。
『はしゃぐわんこにさすがの風紀委員長もたじたじ』なんて見出しの新聞が出ないのは、圭太との一件で大人しくなったからだろう。
しかし、一部の事情を知る者を除けば皆、新しい飼い主に懐いた大型犬、という風にしか見ていない。
「雫ちゃんお散歩しよ?」
そう言って犬飼が赤い首輪に繋げられたリードを雫に渡して四つん這いになっても、周りにいた生徒たちは特に気に留めることもない。
「あかん……なんで誰もおかしいって言わへんねん……」
疲れ切っていた雫は途中で我に返って握っていたリードを思い切り犬飼に投げつけてしまったが、犬飼は息を荒げて喜んでいるので大丈夫だろう。それよりもだ。犬飼を散歩させていて何も言われないとは、どういうことだと雫は不安になった。
「おい猿!」
「王様……」
「風紀の奴が委員長を休ませてほしいって言うから何事かと思えば、そういうプレイにでも目覚めたのか?」
明衣は疑うような目を向けてきている。あの現場に鉢合わせた風紀委員も、雫の様子がおかしいとわざわざ明衣を呼びに行ったのだろう。
「あー、こわ……ボケ倒しすぎやろ……」
「圭太のせいでみんな変な驚き耐性がついてるんだろ」
「そんな馬鹿げた話でも納得しそうになるわ……」
「とにかく、犬飼はしばらく圭太が預かるから猿は休め」
「……いや、ずっとそこは面倒見ぃや」
雫のツッコミに、明衣は首を横に振った。