フォルテ | ナノ


 01



 雫は困り果てていた。何も見なかったことにして帰ろう。このまま回れ右をしてダッシュすれば遠回りにはなるが、確実に安全に自室へ帰ることができる。
 ちょうど曲がり角を曲がった先で問題は起こっているのだ。気づいたのは雫だけで、あちらはまだ雫に気づいていない。ぴったりと付けていた背中を壁から剥し、来た道を戻ろうとして――。


「なにしてるの雫ちゃん」


 戦うでも道具を使うでもない。逃げる、この一択だ。ついでに振り向いたら終わりだ。この間、0.5秒。陸上部も青褪めるほどの走りで、雫は逃走を開始した。



*****



 雫が風紀の仕事を終える一時間前のこと。犬飼は暇を持て余していた。

「つまんない」
「俺の邪魔しといてつまらねぇとか言うな」
「だってめいちゃん会長様は殴ってくれないんだもん」
「人を殴る趣味なんかねぇしな。あとその呼び方やめろ」

 口を尖らせて駄々を捏ねてみるが、だんだん犬飼の扱いにも慣れてきた明衣に効果はなく、余計に退屈してしまった。
 荒れに荒れていたこの学園も、今ではみんな仲良しで和気あいあいとしている。風紀の仕事も減って良いことなのは犬飼にも分かる。が、骨のある人間が全員大人しくなり、犬飼の遊び相手はいなくなってしまった。
 ありあまる体力に夜も眠れず、ストレスも溜まる一方で。インスピレーションも湧かない現状では、作品を作る気にもなれないでいた。

「ご主人様に殴ってもらおうと思ったらご主人様が殴られてるし」

 犬飼の何気ない一言に、明衣は盛大に噎せた。

「あれ、めいちゃん会長様がやったんでしょ?」
「……なんで」
「ご主人様を殴れるのも、殴らせるほど気が緩むのもめいちゃん会長様ぐらいでしょー?」

 思ったことをただ口にしただけで、他意はない様子の犬飼に、顔を赤くしながら明衣は溜息を吐いた。
 どうも犬飼といると振り回されてばかりである。何を言っても犬飼はへらりと食えない笑みを浮かべるか、むすりと膨れ面になるかのどちらかだけで、『素直に見えて面倒臭いヤツ』というのが明衣から見た犬飼の印象だ。
 純粋で忠実で、異様に鋭い。
 圭太を殴ってしまったのは喧嘩をしたわけではなく、致している最中に煽ったら思っていた以上に攻められ、つい手が出てしまったのだ。根掘り葉掘り聞かれたら死ぬ。

「んなことより、猿のところに行かなくていいのかよ」

 なんとか話を逸らそうと、最近犬飼が気に入っている雫の名前を出してみた。身代りになってくれとまでは言わないが、犬飼の相手をするのは体力も気力も相当費やすのだ。
 せめて気を逸らすだけでも出来ればいいと思っただけだったのだが。また一段と犬飼の機嫌がマイナスへと傾いたのは、明衣にとって想定外のことだった。

「仕事中は邪魔すんなって怒られたから今待ってんの」
「……俺の邪魔はしていいって思ってんのか?」
「だってこの後寮に帰るだけでしょ?」
「猿の部屋には連れて行かねぇからな」

 物怖じしない性格と素直さがタッグを組んでいるのだ。あの『王様』を前にしても、緊張するどころか緩み切っている。
 それに、雫に会うために明衣を頼る――否、利用すると言うべきか――姿勢を隠そうともしないのには、苦笑いするしかない。

「風紀の部屋の前で待ってりゃいいじゃねぇか」
「人が来なくなるって怒られたもん」
「あぁ……なんかすまん……」

 人懐っこい犬飼の姿ばかりを見ているせいで、すっかり忘れていた。そうだ、この学園では有名な要注意人物で最近では新たに『魔王様の下僕』なんて肩書きが加えられた男だ。
 普通に黙っていれば美人なのだが、ニヤリと物騒な笑みがデフォルト装備なのだ。怖い。ただでさえ強面が多い風紀室に入る前にそんなのがいたら、確かに人が来なくなる。

「そんなに猿が避けるってお前何やらかしたんだよ」
「まだお願いしかしてないんだけどなー」
「お願い?」
「思い切り殴ってほしいって」

 予想通りの返答に安心感を得ている辺り、明衣もかなり犬飼に巻き込まれているが、それよりもだ。雫に犬飼を押し付けたら、間違いなくキレられる。が、だからといって犬飼を雫から引き離せば、犬飼が何をし出すか分からない。
――もしかして、とんでもないことに巻き込まれてねぇか?
 明衣が頭を抱えたのとほぼ同じくして、犬飼は急に後ろを向いた。

「しずくちゃんだぁ」
「え?」

 明衣が状況を理解する前に、犬飼は駆けだしていってしまった。雫がいるのか以前に、そもそも人がいる気配すら感じなかったのだ。ぽかんとマヌケな顔をした明衣は誰にも見られることはなく、雫の安否だけが心配である。
 数秒後に聞こえた絶叫が遠ざかっていくのを聞きながら、明衣は友人の健闘を祈った。


*****


「ねぇーしーずーくーちゃーんー」
「その呼び方すんな」
「雫ちゃんは雫ちゃん」
「猿渡先輩やろ」
「言いにくいもん。それにオレと雫ちゃんの仲でしょ?」

 にんまりと真正面で雫を見続けている犬飼は満足そうなのに対して、雫は不服を唱え、こうして訂正を続けている。
 しかし、ご覧のとおり全く効果はない。
 かれこれ一時間は過ぎようとしているが、互いに主張を曲げる気がないので話の終わりが見えない。風紀委員たちは口にこそ出さないが、邪魔をしてしまわないように必死に気配を消している身にもなってほしいと思っている。
 ここが風紀室であることを忘れているのでは? 風紀委員たちがそう考えるのは、これまでの雫の言動を思い返せば、自然とその結論に辿りつくからだ。
以前ならば所構わずじゃれついてくる犬飼の相手をする時は、人払いをするか犬飼を引きずってどこかへ行って雫は対応していた。どんなに犬飼が駄々をこねようと、周囲を巻き込まないように雫は徹底していた、はずなのだ。
一体どうしたのか心配しつつも、鬼の風紀委員長と狂犬を前にして話に割って入る勇気はない。
 だからといって、挨拶もせずに黙って帰ることも出来ず、風紀委員たちは静かに待機していた。そろそろ見回りに出ている虎尾と鷹崎が戻ってくるはずなのだ。彼らが戻ってくれば、とりあえずこの膠着状態からは抜け出せるだろう。
 普段はわざとサボったり手を抜いたりして、雫の機嫌を悪くすることにひたすら情熱を注ぐので、ずっと見回りに出て戻ってきてほしくないと風紀委員たちは思っていたりする。だが、今だけは違う。この状況を楽しみつつ犬飼の相手もこなせるのは、あのドMコンビしかいない。
 犬飼を止めるなら、彼が『ご主人様』と慕う魔王様こと南波圭太を呼べばいいのではと、普通の人は考えるだろう。
 だが、風紀委員たちは知っている。ここで魔王様を呼べば、さらに状況が悪化することを。それに、気軽に魔王様を呼び出して素直に来てくれるのは、王様が連絡を取った時だけなのだ。
 今日はすでに生徒会からの書類を届けに、副会長である桜野が風紀室に来ている。王様こと生徒会長の天王寺明衣がここへわざわざ来る理由がない。王様とコンタクトが取れない以上、魔王様を呼ぶことも出来ない。また仮に何らかの方法で魔王様を呼び出せたとしても、素直に魔王様が助けてくれる可能性も頼りないものだ。
詰み将棋かよ、と思わずそう零してしまうくらい、どの作戦も成功率が低い。そうして風紀委員たちが頭を悩ませている間に、痺れを切らした犬飼は雫に噛みついた。

「えっ」

 風紀委員たちの堪えきれなかった驚きが、ハーモニーを奏でる。

「このアホッなにしてんねん!」

 風紀委員たちと同様に固まっていた雫だが、ハッと我に返り怒号と共に犬飼を殴り飛ばした。
 犬飼からのラブコールはもはや日常的になっていて、風紀委員たちにも見慣れた光景となっている。が、それはあくまでも圭太と犬飼のような、主従関係で懐いているものだとばかり思っていた。
 しかし、よくよく考えてみれば、圭太と接している時の犬飼はまだ聞き分けがいい。圭太がダメだと言えば、素直に引き下がる。
 それが、雫といる時の犬飼ときたら幼児のようにぐずり、言うことも聞いていない。単に飼い慣らせていないだけなのではないかという考察もあるが、犬飼だけでなくこの学園の問題児を次々と掌握している圭太が人並外れているだけであって、犬飼に懐かれている時点で既に異常なのだ。
 加えてもう一つ、異なる点がある。それは、犬飼から圭太にスキンシップをしている姿を見たことがない、という点だ。懐いている相手であっても、一定の距離を置いている。
風紀委員たちが犬飼と会う時は、必ず圭太か明衣、もしくは雫がいるので、自然と人懐こい犬飼ばかりを見ている。その所為ですっかり忘れているが、犬飼は風紀委員会で要注意人物としてマークしていた生徒なのだ。
 つまりは、今の雫と犬飼の距離感の方がおかしいと、普通ならば思うはずなのだ。

「自然と馴染んでるのも作戦の内なのか……?」
「まさか……いや、ないだろ……」

 風紀委員Aの呟きに、Bはそこまで考えて動いていないだろうと否定したものの、完全には言い切れなかった。無計画にマイペースに行動を起こしていると最初は思っていたが、雫の行動パターンを読んでいたり、頭脳派ドMヤンキーで知られる猫渕遊真と互角に渡り合える部分も含めると、可能性を捨て切ることは出来ない。
 なによりあの南波圭太が『わんこ』とあだ名を付けるほど、一番お気に入りの下僕なのだ。もうそれだけでどんな騒ぎを起こされようと、「あいつなら仕方ない」の一言で済ませてしまいそうである。
 ああだこうだ風紀委員たちは小声でやりとりしていたが、真実とは時に容赦がないものだ。

「このアホがそんなん考えて動くわけないやろ」
「委員長、なんで言い切れるんですか?」
「考えれる頭があったら無差別に喧嘩吹っ掛けたりせぇへんやろ。犬みたいに嗅覚鋭いし、野生の勘で本能のまま動くんは未だに信じられへんけど」
「野生の勘……」

 常人離れした人間に囲まれすぎている所為か、風紀委員たちの順応は早い。匂いで雫の居場所が分かるんだ、すごいくらいにしか思っていない。

「この前も気づかれる前に引き返したのに、振り返ったら走ってきてんの見えてホラー映画より怖かったわ」
「雫ちゃんはね、おいしそうな匂いがするんだよね」
「……委員長、毎日焼肉弁当食ってますもんね」

 雫は咄嗟にシャツの胸元を掴み、すんすんと確認している。が、雫は焼肉弁当を食べていただけであって、焼肉をしたわけではないので、衣服からは洗剤のフローラルな香りしか匂いがしない。

「わからんわ……」
「焼肉弁当は関係ないけど、雫ちゃんはおいしそうな匂いがするんだよー」
「まともに相手したらこっちまでおかしなるわ」
「えー? 構ってよ雫ちゃーん」
「うるさいわ、いつまでおんねんアホ」

 床に座り込んだまま駄々をこねる犬飼の首根っこを掴んで、雫はそのままズルズルと犬飼を引きずっていく。扉の外に放り出して、雫はすぐに扉を閉めた。

「あれ、回収に来てもらうからもうちょい待ってや」

 そう風紀委員たちに話してから、雫は誰かに電話をかけ始めた。犬飼の回収、となると圭太しかいないだろう。すぐに電話は繋がったようで、雫は用件だけを伝えると通話を切った。

「はぁ……ほんまあいつ疲れるわ……」

 机に突っ伏した雫を労わろうと、風紀委員たちはコーヒーと茶菓子の用意をはじめた。






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