01
騒がしい生徒会室に、置きっぱなしにしていた書類は無事だろうかと明衣は心配していた。圭太が荷物を持っていない左手で扉を躊躇なく開け放つと、中の音はぴたりと止んだ。
それは束の間ではあったが、恵が何かを言い出す前にキッチンで準備をするとだけ伝え、雫に明衣を任せるだけの時間には足りた。
「なぁなぁ! 会長なんだろ!?」
圭太がキッチンへと姿を消した後、やはり恵は明衣の元へと駆け寄ってきた。明衣以外の生徒会役員達がここへ来ているのを久々に見たななどと思っている間にも、手入れのされていないボサボサな髪の少年はまた明衣の腕を掴む。
いや、掴もうとしたのを雫に阻止された。
「なんで邪魔するんだよ!」
「さっきも食堂でギリギリ握り締めとったやろ? 恵やったっけ? よう考えてみぃ、自分怪我したとこ弄られたいか?」
「だって逃げるだろ!」
「痛くしたり嫌なことせんかったら逃げへんよ」
恵は渋々手を引っ込めると、バッと明衣を見上げた。
「仲良くなりたいんだ! 名前教えてくれよ、俺は柳川恵! 恵って呼んでくれよ!」
「天王寺明衣」
「明衣か! よろしくな!」
キンキンと響く大音量の声は、明衣にとっては不愉快でしかない。明衣は早く離れたい衝動に必死に耐えていた。生徒会室に入る前、圭太から言われた通りに明衣はひたすら耐える。
話し掛けられたら最低限のことだけは答える。秘密にされたり、教えてもらえないことを嫌う彼に必要以上絡まれたくない場合、訊かれたことだけを素直に答えておけば面倒なやり取りはある程度回避出来る。そう圭太は言っていた。
しかし、耳を容赦なく刺激し続けている声のボリュームはなんとかならないものかと雫に任せた。雫は嫌そうに一瞬顔を顰めたが、なるべく優しく恵に話し掛けた。
「もうちょい声静かに出来ひん? 大きい音苦手やねん、頭痛くなるから」
「俺そこまで大声出してねぇじゃねぇか!」
雫は苛立ちを感じつつも、世話のかかる小さい子を相手にしているのだと自分に言い聞かせ対応する。
「元気いっぱいやからよう声が届くんや。王様も大きい音はあかんねん、それとも友達を頭痛地獄に陥れる気なん?」
「でもっ!」
「王様は今寝不足気味やねん、少しでえぇから声小さくしたって?」
そう言われた恵は明衣の顔をじっと見た。目の下の隈と血色のあまり良くない顔色。誰がどう見ても体調万全とは言えない。
「しんどいのか?」
先程までより抑え気味に喋るようになった彼に、雫はほっとした。明衣はどう答えるか少し迷った後、ぽつりと小さく答えた。
「ずっと寝てなかっただけだ」
明衣の返答に役員達の顔に焦りが見えたのを、雫は逃さずに見ていた。いくらなんでも彼らと一緒に居なかった明衣が、彼らの分まで仕事をこなしていたことぐらいは分かっているだろう。
「ちゃんと寝ないと体に悪いぞ?」
恵はただ単に明衣の体調を気遣っているだけで、明衣は彼の無知さに苛立ちを通り越して呆れるしかなかった。明衣が眠れていない原因の根本に、恵は自分が関わっているとは理解していない様子で。
生徒会役員達がどういう情報を恵に与えているのかは知らないが、きっと碌でもないことを吹き込んでいるのだろう。
今度は恵の後ろに控えている役員達にも聞こえるように明衣は答えた。
「会長の仕事に誇りを持ってるから、投げ出す訳にはいかねぇんだ」
「でも、誉達も仕事してるんだからそこまで忙しくないはずだぞ?」
「ずっと一緒に居たんだろ? いつ仕事してた? 書類の持ち出しは俺が許可しねぇと持ち出せねぇ。なぁ、いつ仕事をしてたか教えてくれよ」
明衣のその問いに恵は答えることが出来なかった。部屋に帰ったら仕事をしているのだと思っていた。が、目の前の生徒会長は彼らは仕事をしていないと言う。
押し黙った恵にも、役員達にも何もそれ以上追及することなく、明衣はただじっと彼らを見ている。
沈黙。それは役員達には怒鳴られるよりもきつかった。
――いっそのこと役立たずと切り捨ててしまえばよかったのに、何故。どうして。
そんな疑問ばかりが胸の中で渦巻いていた。仕事の出来ない人間は必要ない、世の中が甘くはないことなど十分承知している。いくら謝ろうとも許される訳がない。
生徒会長が哀しそうな目でただじっと見つめていたことは、罵声を浴びせられるよりも苦しかった。
しかし、明衣はただ、これから始まるであろう恐怖による支配に置かれる役員達を哀れに思っていただけだったのだが、そんなことを彼らが分かるはずもなく気まずい沈黙が続く。
「会長……、何か言いたいことがあるのなら言ってくださいよ……!」
この空気に耐え切れなくなった副会長が、明衣の前に出た。ずっと彼らは能力、知能ばかりを見られてきた。ここでは何よりも能力を優先される。
才能を埋没させてしまうことを良しとせず、常にプライドを高く持ち続けていた。そして、そんな毎日に疲れていた。
しかし、恵はそんな現実をぶち壊してくれた。恵と一緒にいるととても楽しくて、今まで気にしていた事が全部ちっぽけなことに思えて、気張らずにいられるのが嬉しかったのだ。
「俺は仕事さえしてくれればそれでいいと思っている」
落ち着いた明衣の声が静かな生徒会室にはよく響いた。彼らには足りなかった明衣の強さを思い知らされて唇を噛んだ。確かに、明衣は生徒会長に抜擢されるだけの意志の強さと能力を持っている。
それは、以前から役員達全員が思っていたことだが、改めて明衣には敵わないのだという現実を突きつけられて悔しさが込み上げた。
全員が口を閉ざし、重く息苦しいただならぬ雰囲気に、恵は戸惑っていた。
――どうして喧嘩なんかするんだ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
――どうして皆仲良く出来ないんだ。
そんな疑問が次から次へと湧いてくる。悲しんでいる顔を見るのが嫌いで、毎日を楽しく笑って過ごしたい。そう思って、ここへ来てはじめて会った時、辛そうな顔をしていた役員達を楽しませようと必死だった。
どうしてそんなに暗い顔をしているのかと役員達に訊いた時、生徒会長は夜な夜な遊びまくっていて仕事をしないのだと彼らは言っていた。それが事実なのだと教えられ、何の疑いも持たず鵜呑みにしていた。
自分が正しいのだと思っていた。間違っていることは間違っていると言わなければいけない、――でないと、大切な人が離れていってしまうから。
「きっとみんな何か勘違いしてるだけだろ? 明衣がちゃんと仕事してるのを知らなかった。みんながちゃんと仕事してるのを知らなかった。お互いに知らなかっただけだろ……?」
「俺は、何度も仕事をしろと言った。そこにいる奴らの分も、誰が片付けたと思ってるんだ?」
焦りと罪悪感が役員達を締め付ける。押し黙る役員達を見て、恵は庇うように前に立った。
「そんな言い方すんなよ! 仕事をやろうとしてたのかもしれないのに決めつけんな! それに、明衣にはセフレがいるんだろ? セフレなんて最低だっ!」
何かに怯えるように喚く恵に、明衣は静かに質問を投げかけた。
「俺の名前と性別、国籍、肩書き以外で知ってる確かな情報はあるのか?」
「急に何言って」
「たったそれだけしか俺のことを知らねぇだろ? それで俺に直接訊いていない噂だけを、噂の方だけを信じたんだろ? どういう人間かってのは長い付き合いで分かってくるもんじゃねぇのか?」
恵はギリッと奥歯を噛み締めた。言い返す言葉が見つからず、ギュッと拳を握りしめる。
「恵を責めないでいただけますか? それに、貴方にセフレがいるのは事実でしょう」
――謝れば済んだ話だったのかもしれない。
今、悪いのは自分達だと分かっている。明衣への強い憧れ、それは彼らに劣等感を与えていた。
元々プライドが高く、謝ることに慣れていない彼らは、今さらどうすればいいのか分からず、退くに退けないまま今日まできてしまった。
「めいちゃんにセフレがいるとはなぁ?」
気まずい空気をものともせず、圭太はニヤリと口元を歪めながらキッチンから出てきた。得体の知れない不気味なドロドロとしたスープらしきものとおいしそうなクッキーを手に持っていた。
それを圭太以外の全員が二度見した。
「圭太、その……それは何だ?」
誰もが顔を引きつらせている中、明衣は勇気を振り絞り謎の物体の正体を訊いた。一見すればヘドロにも見える苔色のそれは、隣にあるおいしそうなクッキーと並べて見ると、まず食べ物なのかも怪しく思われる。
「クッキーとそのトッピングに決まってんだろ」
「……」
――猛烈にクッキーだけを食べたい。いや、絶対。
そのトッピングらしい物体の成分は何なのか、その肝心な所が不明な内はトッピングは無しで頂きたい。そんな考えを全員がしている間にも、圭太はクッキーを全て物体の中へと投下した。
トッピングに中途半端な感じでクッキーがズブズブと突き刺さっていく。
「圭太っ!? トッピングじゃねぇのかよ!」
「トッピングしてやったんだよ」
クッキーをトッピングしてますよね、とは言えなかった。何か意見してしまえば、あれを食べさせられる標的になるに決まっているからだ。
しかし、意見せずとも圭太は無駄にいい笑顔で、恵の前に無惨な状態のクッキーを差し出した。
「マリ…じゃねぇや、恵から食え。俺が一生懸命作ったやつだから」
「食って大丈夫なんだよなこれ!?」
「見た目で判断するなんて最低だの言ってただろ、つべこべ言わずに食え。じゃねぇと謝れねぇだろうが」
「普通に謝るだけでよくないか!? むしろ罰ゲームだろこれ!」
役員達には目もくれず恵をじっと見続ける。わぁわぁと暴言暴挙に出られれば押さえ込むという解決法があるが、無表情でただずっと待っていられると物凄くやりづらい。
それに加えて、圭太からは謝罪の為にという善意で今これを差し出されているのだ。
――一生懸命作ってくれたのに食べないのは友達として失格だよな。
そんな考えが恵の中で浮かび上がっていた。圭太の言葉に恵は、苔色にコーティングされどろどろになったクッキーをひとつ摘みあげた。
「いた、だきます……!」
「恵!」
「大丈夫だって、圭太を俺は信じるよ!」
ぱっくり、と口に放り込み、咀嚼していく恵の顔色はクッキーが形を無くしていくのに比例して青くなっていった。
ごくりと飲み込んだと同時に咳込む。
「どうしたんですか!?」
「うぇっ、苦い……」
「苦い? 恵って確か苦いの駄目って言ってなかったっけー?」
役員達は圭太を睨んだが、圭太はきょとんとしていた。
「あぁ、悪い。知らなかった」
「知らなかったでは済まされませんよ!」
事前に誠司から恵は苦い物が大の苦手であると聞いていたので、圭太のリアクションは全て演技であったのだが、彼らに気づけるはずもなく声を荒げた。
喚く彼らの言い分を聞いて圭太は蔑んだ目で彼らを見た。
「知らなかったでは済まされねぇなら、てめぇらも明衣が仕事頑張ってんの知りませんでしたっつうのは通用しねぇってことだぜ?」
「かいちょーが頑張ってくれてたのは知ってるよ。悪いのもオレの方だって分かってた」
圭太の意見に、ぽつりと会計は小さく震えた声で同意した。その視線は床に固定されたままで、キョロキョロと彷徨わせてはいるものの上がることはなかった。
「かいちょーのこと、嫌いになった訳じゃないんだ……むしろすっごく尊敬してるよ? でも、苦しかった」
「森宮……」
「頼って欲しかった! かいちょーは何でも出来ちゃうから、いつも完璧に一人で全部やりきって……ひぐっ、オレっ会計の仕事、得意分野だから頑張ろうって、でもっ、うわあああんっ!」
泣き崩れる会計に明衣は戸惑う一方で、ハンカチを差し出してみたが拒否され、行き場をなくしたハンカチを渋々ポケットへ戻した。
「王様はそこの平凡くんとの約束守る為に頑張っとったらしいし、必死になっとってん」
「平凡って呼び方腹立つ、南波様と呼べ」
「その変な緑のこっち向けやんとって! 南波でえぇやろ!」
「雫ちゃんはそんなにこれが食いたかったのか。全部食っていいぜ?」
「名前で呼ぶな、いらんわ!」
泣き止んでぽかんと二人を見上げている会計に圭太は目を合わせると、にたりと口元を歪めた。
「ヒッ」
手を伸ばされ、何をされるのかと怯える会計の頭をわしゃわしゃと乱暴に掻き撫でた。 パニック状態に陥っている会計はわたわたとするばかりで、されるがままになっている。
「圭太、それぐらいにしておけよ」
「いやぁ、飼ってる犬に似てたからつい」
どうリアクションをすればいいのかだんだん分からなくなってきている役員達は、もう下手にツッコミを入れるのは止めようと密かに誓った。犬に似ていると言われた会計は複雑な心境である。
「俺一人で何でもやろうとしてたのは悪かった。森宮、お前の方が計算得意だし会計の仕事が出来るのに頼れなかった」
「かいちょー、今度はオレを頼ってよ。今まで仕事しなかった分、頑張るから!仕事押しつけてごめんなさい」
バッと頭を下げた森宮の肩を明衣は掴んで顔を上げさせた。森宮が仕事に戻ってくれると明衣は喜んでいたが、簡単には許さない人間もいる。
「他もまとめて言っておくが、仕事に復帰したぐらいで許されるとは思うなよ? あとマリ……、恵も我が儘は通用しねぇってことは理解しろ」
容赦なく地獄に叩き落とされる。そう確信して背筋が震えた。
――この人、間違いなく魔王様だ。
明衣だけはカッコイイと言って圭太にキラキラと目を輝かせながら感動していたが。そんな明衣を見て、雫は明衣が元気になるならいいやと、魔王様の反撃を止めることなく静観することに徹した。余計なツッコミを入れて巻き込まれるのはもう懲り懲りだといった様子だ。
圭太が次に何をしだすのか、役員全員が警戒の色を強めていた。そんな中、空気の読めない男が一人いた。
「何言ってんだよ圭太! ちゃんと謝ってくれたのに許さないのはいけないだろ!」
――ああああツッコミ入れないでくださいお願いします!
役員達の心の声は届くことなく、恵は果敢に、無謀な挑戦をした。武器も持たずしてラスボスに挑むようなものだ。
案の定、ニタリと圭太は笑みを浮かべた。
「ならてめぇは自分だけがずっと辛い思いさせられて、ごめんの一言で相手を許せるのか?納得出来るのか?」
「許せるに決まってんだろ!」
「……そうか」
「……ぐっ、ぁ! ゲホッ」
それからの出来事は一瞬で、そして鮮やかであった。鋭いボディーブローが叩き込まれ、恵は膝から崩れ落ちた。一切無駄のない冴え渡った動きに、誰もが何が起こったのか、瞬時に理解することが出来なかった。
「何…、すんだっ!」
「ごめん」
理不尽な暴力に対する恵の怒りに、圭太が返したのはたった三文字。ごめんなさいで済むならば警察は要らない、まさにそれが今の状況だ。
「ごめんって言えば許してくれるんだろ?」
「明衣の時は、誰も暴力なんか振るってなかっただろ!」
「言葉も時には刃になる。自分の責任すら明衣一人に押しつけておいて、暴言浴びせられてるのを暴力じゃねぇって言うのか?」
「でも!」
「なんなら今から明衣が一人でやってきた仕事、てめぇら今から毎日交代で一人ずつやってみろよ。ついでにてめぇらに反感持ってる生徒集めて周り囲んでおいてやろうか?」
決して冗談半分で圭太はこんな提案をしているのではないのだと、散々空気を読めなかった恵にでさえ理解出来た。
「俺はてめぇらをリコールさせる気はねぇんだよ。明衣の努力が踏み躙られるからな」
そう言って今までの言動からは想像出来ない程、優しく明衣の頭を撫でた。ずっと見てきた王様の姿は何だったのだろうかと思うぐらい、明衣は嬉しそうに、少し照れくさそうにじっと撫でられている。
そんな明衣を信じられないものでも見たかのように、役員達は凝視していた。あれは本当に天王寺明衣なのか、王様と呼ばれるに相応しいあの生徒会長なのか。
もしかしたら、これは夢なのではないか。そこまで考えていた生徒会役員達を、圭太は現実に引きずり戻す。
「俺はてめぇらを根本から叩きなおす。逃げ場なんてもんはねぇから、覚悟しておけよ?」
蛇に睨まれた蛙の如く、言い知れぬ恐怖に支配されつつある身体は、逃げ出したい衝動に駆られようとピクリとも動かなかった。