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▼ 下種と鷹とに餌を飼え

 艶やかで甘美な声が部屋中に響き渡っていた。低く、しかし情欲に濡れた上擦った男の声と、余裕など一切感じられない切迫した様子の男の声。
 ベッドの苦しそうに軋む音が淫靡な水音と共に、彼らの行為の激しさを物語っている。快楽を貪り合い、小刻みに身体を痙攣させて絶頂まで上り詰めるのにはそう時間を要さなかった。
 用済みとなったゴムをゴミ箱へ捨てる男の背後では、暗い室内でもその存在をはっきりと感じ取れる程、圧倒的なオーラを放つもう一人の男が気怠げにベッドに腰掛けている。
 この二人の間には甘い雰囲気など微塵も感じられなかった。
 いや、正確にはベッドに腰掛けている方の男がそういったムードになるのを許さないのだ。

「さて、契約通り六万払ってもらおうか」

 ベッドに腰掛けている男は不敵な笑みを浮かべ、向かいにいる男へ命令した。"言った"のではなく、"命令した"のだ。
 事前にそういったやり取りをしていたことは窺えるが、男は何故か目に見えて焦り始めた。

「なっ……三万だと言ったじゃないか!」
「だってお前俺がイく前に勝手にイっただろ。それに俺は十時までに来いって言ったよな? 金ぐらいいくらでもあるだろ?」

 嘲り、嗤いながら冷たく突き放す男に言い返す言葉が見付からずギリギリと歯を食い縛る。男は財布に入った紙を六枚抜き取ると、うなだれている男の目の前で広げてひらひらと扇いでみせた。
 悔しげな表情を見せていた男であったが突然それは悪人面へと変わる。
――良い事を思いついた、と言わんばかりに笑顔に変わる。

「金さえ払えば天下の会長様をヤれるって聞いたからわざわざ買ってやったのに! まさか会長様がこんなビッチ野郎だなんて周りが知ったら困るのはお前の方だろ! はははっ」

そうだろ! なぁ? と、自分の方が優位なのだと勝手に勘違いして喚く男の顔面目がけて、会長と呼ばれた男は長い足を振り上げた。メキリ、と骨の軋む音が鮮血を散らす。

「ぐあっ……、く……かはっ…」
「ぎゃあぎゃあとうるせぇよ屑が。俺の前に二度と現われるな」

 自分にとって都合の良くない事が起こるとすぐにキャンキャンと喚き吠える人間が邪魔で仕方なかった。
 目立つ容姿に女も男もふらふらと馬鹿みたいに寄ってくる。性欲処理さえ出来ればそれで良かったのだ。
 しかし、飽きて捨てればキャンキャンと五月蝿く吠える。最低、と軽々しく罵り、あたかも自分は騙された被害者なのだと言うかのように泣き出す。
 その度に彼は言う――浅はかで馬鹿なお前が悪い、と。

「てめぇよくも……! 言い触らしてや、……は……? なんで、お前がここに……ぐ、あぁああぁあっ!」

 今回もまた一人、馬鹿な駒が罠に掛かる。男は何かに気づき、驚愕の表情を浮かべた。思いもよらない第三者の介入、その人物によって耳を劈くような悲鳴が部屋を埋める。
 その様子をまるで虫けらでも見るかのように見下していた男は、助けを求める声に背を向け、何事もなかったかのように汚れた身体を洗う為に浴室へと足を運ぶ。
――賢い人間なんざ居やしねぇ。
 これが日常で、こんな彼が生徒の代表を任された生徒会長で――そして、この取り引きは彼にとって遊びでしかなかった。



「いい加減下らないゲームをするの、止めたらどうです?」
「とか言って、昨日の奴を再起不能にしたのはどこのどいつだ」

 昨晩と同じ部屋に会長ともう一人、黒髪の男がいた。誰もが見惚れるような容姿の会長に比べ、黒髪の男は普通と形容されそうな容姿をしている。実際にテストも運動も平均的で、特技もなければ他人よりずば抜けて出来る事もない。没個性の渦に呑まれているような人間である。
 ただ、それは表面上でしかなく中身を見れば、カリスマと持て囃される会長とは似た者同士より更に近い。所詮人間も飼い犬と同じで、社会の中で飼われているかそれ以下だと嗤う日々。歓喜に満ちた人間が絶望へと堕ちていく様を見るのが好きだった。
 だからこそ、会長は昨晩のことを本気で非難している訳ではない。あの男はただ馬鹿で運がなかったのだ、と最後に見た男の汚い顔を思い出してくつくつと笑った。

「あいつにはあの顔の方がお似合いだったでしょう? 可哀相だったから家族共々命だけは奪わないでおいたんですよ。金さえ与えておけば縋ってくる、聞き分けのいい利口な犬ですよ」

 男は着ていたTシャツの裾を胸元まで捲り上げると、へらりと笑いながら傷だらけの身体を見せた。

「オレ、あいつにずっと虐められてたんですよねー。オレの中では『目には目を、歯には歯を』なんて生温い仕返しは糠に釘を打つのと一緒なんですよ。刃向かう気さえ起こらないぐらい本人もその周りも潰さないと、割に合わないしまた仕返しされるでしょ?」
「はっ、相変わらず腐ってやがる」

 服に隠れる部分には切り傷、擦り傷、痣の跡が絶えず残っている。かなり古いものから新しいものまで、会長を飼ったことから総ては始まった。遊びではなく、文字通り巨額の金で飼っているのだ。
 人気者なんてもの程度に留まらない、崇拝される域にある会長に近づけばそれだけで制裁対象となるのは、この学校という檻の中では当たり前だと認識される。
 それでも会長を飼うという選択肢を棄てなかった。

「お前が傷だらけになろうがそれは自業自得だ」
「解ってますよ。ただ、貴方を飼っているのは愛でる為なんですから今晩は相手してくださいよ」
「愛でる、ねぇ? 俺は鞭を打つ前の飴として利用されてるとしか思ってねぇよ」
「そこはお互い様でしょう。オレが後始末していなかったらきっと刺されてますよ」

 キッチンから包丁を取り出し、突き刺すようにジェスチャーをする男の動きが急にぴたりと止まる。
 ゆるりと口元に弧を描く。

「もし、オレが殺されたらどうします?」

 明るい口調で問い掛ける。今日の夕飯は何かと訊くかのように。
 その問いに考える必要もないと言うかのように、会長は躊躇うことなく即答する。

「嗤ってやるよ、ざまぁねぇなって」
「えー酷くないですか? オレだったら相手ぶっ殺してオレも死にますよ」
「くだらねぇ。嘘吐きの言う事は信用しねぇ、どうせお前も嗤うんだろ?」
「嗤いませんって。あぁ、でも……その前にそんなヘマはしないですね」

 へらりと嗤う男はどこまでも普通の高校生で、何の曇りもない綺麗な笑みを浮かべた。
 今宵も噛み付くような口づけには何も情など存在しないと互いに嘘を吐き合うのだ。



下種と鷹とに餌を飼え
(鷹を餌で手なずけるように、下賤の者には金品を与えるのがよい)

END




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