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▼ 隣に君がいないなら

 絶体絶命とはこういうことを言うのだと、頭の中のどこか冷静な部分は、滅多に使ったことのない四字熟語を引っ張り出してきた。
 左右には、程よく日に焼けた腕。背後は、コンクリートのおそらく冷たいのであろう壁。そして、前には視界いっぱいに広がる黒い髪。

「捕まえた」

 目の前の男の顔は、喜びに満ちていた。心臓と気管が悲鳴を上げているのを、宥める暇も余裕もない程に、彼はその腕の中の、かつて一匹狼と呼ばれていた男の存在を確かめたかった。
 黒い髪が視界の左横を通り過ぎたと認識した後に、汗で濡れたままの首筋に痛みが生じる。
 それをきっかけに、元一匹狼は停止していた思考をフル稼働させた。覆い被さる身体を突き飛ばし、来た道を引き返す。

「クソッ、なんでアイツが……」

 もう話すことも触れることも出来ない。だから、最期に一目見てから去るつもりだったのに。どうしてあの男まで、こちら側にいるのか。
 走る、とにかく遠くまで走る。走りながら、半年前から今までの自分の失態を悔いた。
 今までのように他人と距離を置いていれば、こんな目に遭うことはなかった、と。あんな爽やかスポーツマンを装った変態に、ここまで追われることもなく独りでいることが出来たのに、と。いっそ再起不能にしてしまえば楽だと考えた時もあった。
 しかし、相手は想像を上回るタフさと執念を兼ね備えた、実に面倒な変態になっていた。



 黒髪の男は元一匹狼の傍に居て、笑いあったり悲しみあったり、ささやかな幸せが何より好きだった。その小さな世界の時が止まってしまったのは、二週間前のこと。
 突然、二人の歯車は狂わされたのだ。連日の日照りに揺らぐ視界の隅に映る、小さな猫と白い車。無意識に飛び出した瞬間に、ヒビの入った車のフロントガラスが見えて骨の軋む音がした。
 ゆらりと歪むアスファルトの熱に、身体中から汗が噴き出したあの時間は、終わりなどないのではないかと思わせるほどに長く寂しかった。
 一生懸命に一匹狼の名前を叫ぶ男の姿が、温もりが、声が、だんだんと消えていく。一匹狼はもう、彼の隣には並んで居られない。
『泣くなよ』
『やっと静かに昼寝ができる』
『さっさと帰れよ』
 言いたいことは山ほどあった。そのどれも口にすることは出来ず、重い瞼を閉じた。
『俺なんかに構ってないで、ちゃんとしろ』
 一番言いたかったことも言えないまま、ずっと触れたかった温もりに包まれて。


*****


 寂しがりな一匹狼を迎えに行くのだ。
 彼から与えられた喜びも痛みも、全てが愛おしい。男は清爽な笑みを浮かべ、誰も居ない廊下を進む。
 彼がいる、それだけでいい。いるはずのない自分が現れたことに、驚きと喜びと怒りを交えた顔をした一匹狼のいる場所が、自分の居場所なのだ。嫌悪の表情を浮かべながらも、心の底では怯えているのだろう。近づけば近づく程、自然と距離を取る彼がこの上なく愛おしいのだ。

「あぁ、なんて不器用で可愛らしいんだろう」

 おいしいとは思えないであろう汗も血も、彼のモノだというだけで、もっとこれ以上に堪能したくなる。彼のすべてを今度こそ逃すものかと、一滴たりとも無駄にしないように歩みを進める。
 満たされていた幸せが、空いた穴からどんどん流れ出ていった。横たわったまま人形のように動かない一匹狼は、酷く繊細で儚く、男はそれを茫然と見送った。覚めることのない悪夢。
 何も言うことができなかった。何かを伝えるには、溢れ出した言葉をまとめるには、短すぎる時間だった。
 その時、言えなかった言葉を伝える為に、男はただ必死に追いかける。恐らく次に彼が向かうとすれば、自分の部屋だった場所だろう。

「やっぱりここに居た」
「……馬鹿か、馬鹿なのか!」
「だって俺ら寂しがりだから。俺が来るの待ってたくせに、怒るとかひどくない?」
「俺のことなんか忘れて帰れ! まだ、お前は間に合うだろ!?」

 暴れる一匹狼に構わず、男はぎゅっと一匹狼を抱きしめた。

「あんな地獄の中で生きろなんて、言わないでくれよ……」
「いつか、そうじゃなくなる……」
「いつかって、いつまで? 俺は、忘れられない……お願いだから、もう俺を置いていかないで」

 震える男の背中を、撫でようとした右手が宙を彷徨う。
 受け入れるのが怖い。彼の未来を奪うべきじゃない。分かっているのに、別れを口にすることが出来なかった。
 
「……ばかやろう」
「よーく知ってるだろ?」

 重なり合ったシルエットが、静かに月明かりに消えていった。翌日、昏睡状態だった一人の男が安らかな表情のまま、その息を止めた。



END.


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