・24話後


 おそ松兄さんの一番になれないことは目に見えて分かっていた。明々にして白々だった。だから二番目になろうとした。まあそれも無理だった。ならば三番目、四番目、とそのランクを段々落としていって、十番目くらいまで行ったところでおそ松兄さんにとって僕が何か特別な地位に至る存在になれないということを理解して、号泣した。十四松の如く号泣した。目ん玉飛び出るんじゃねえかってくらい号泣した。次の日職場の人にあまりにも目が腫れていてドン引くついでとばかりに大して心のこもっていない心配の言葉をもらった。クジのハズレ商品であるティッシュのごとき台詞に僕も大した返事はせず、花粉症ですと嘘を宣ってその場から離れた。トイレの鏡に映った自分を見て、ああこりゃ確かに上っ面とはいえ心配したくなるわと笑ってしまった。心配ではなく恐怖かもしれない。それほど腫れていた。B級ホラーにでも出てきそうな面構えだ。笑えねえ。
 僕がどれだけ泣いても、僕がどれだけ目を腫らしてもおそ松兄さんにとっての特別にはなれない。時間が経てばそれだけ涙の数も減った。でも胸の痛みは未だにじくじくと僕を蝕んで解放してくれない。それもいいかと諦めたのは最近のことだ。おそ松兄さんにとって、僕はなんでもない存在なのだ。いてもいなくても、おんなじ存在。空気の方がよっぽど重要な役割と存在感を放つほどの、僕の価値。空気扱いという言葉が褒め言葉に聞こえるほどの扱い。それがおそ松兄さんにとっての僕だ。そりゃそうだ、人間、空気がなきゃ生きていけない。おそ松兄さんは僕が消えても死んでしまうわけではない。空気の方がよっぽど兄さんの身体を支えている。そのことが悔しくて、何もない空を殴ったら隣で手を洗っていた男がぎょっとした様子で僕を見て、顔を見た瞬間一目散に逃げていった。僕は妖怪か何かか。あながち間違ってはいない。

 おそ松兄さんは僕になんの言葉も吐かない。セックスの時ですら、やるぞとも脱げとも言われない。僕の前に立って十秒動かなかったら、それが合図だ。僕は黙って用意をし始めるし、おそ松兄さんも黙ってそれを待っている。僕が準備できたと言った瞬間から、セックスが始まる。もちろん甘い言葉もなければ甘い愛撫もない。オナホの方がまだ丁寧に扱われていると思うやり方で、僕を抱く。だからこれはセックスというよりオナニーなのだろうなと僕は揺さぶられながら思うのだった。
 時々言葉を発してもそれはただの独り言であって、強いて言うならば空気に話しかけているようなものだ。やっぱり僕は空気に打ち勝てないらしい。畜生、ぶっ殺してやりてえ。その怨念が視線に宿っていたのか、仕事中誰も僕に話しかけなかった。そもそも僕に話しかけるような酔狂な奴はいない。僕が現れると皆蜘蛛の子を散らすように逃げていく。腫れ物扱いには慣れている。家でいないも同然の扱いをされれば、まだこの方がマシだという心の余裕すら産まれてくる。だってあのおんぼろアパートで待っている(まずこの表現がおかしい。兄さんは僕を待っているわけじゃない。自分がいるところに僕が訪れるだけという認識に近いに違いない)おそ松兄さんは、僕が何をしようが視線をちらりとも寄越さない。おそ松兄さんと再会してから視線が合ったことなど、あの寒空の下で僕が兄さんの手を掴んだ時くらいだ。あの時だってもしかしたら僕じゃなくて僕の向こうにたたずむ電柱に視線を向けていたのかもしれない。僕はどうやら電柱にすら勝てないようだった。まあ電柱って電気を送るっていう大仕事してるもんな、僕みたいなゴミがゴミを片付けるというギャグみたいな職についている存在が敵うはずもない。


「馬鹿じゃないの」


 おそ松兄さんが僕のところにいると一番早く知ったのは、やはりと言うべきか末弟であるトド松だった。母さんに口止めしてあったはずなのに、どこから仕入れたのか、僕とおそ松兄さんが同居(この表現はいかがなものかと思う。半分誘拐するような形で僕はおそ松兄さんを連れてきたのだ。同居というのとはちょっと違う気がする)しているということを知ったトド松は、僕を殴らんばかりの勢いで家へ押し掛けてきた。おそ松兄さんは玄関でぎゃんぎゃんと吠えるトド松にちらりと視線をよこしてから、また夕方のニュースを垂れ流し続けるテレビを眺め始めた。そのことに、僕の心はまたちくりと痛むのだ。僕が何をしようと眼球一つ、瞼を一ミリすら動かさないというのに、トド松が来たらその視線を多少とはいえ動かすのだからもはや傷つくところなんてないのではと訝るような僕の心だって少しは傷む。うそ、すげー傷んだ。傷ついた。やっぱり僕はおそ松兄さんにとっていないもいるも同じものなのだと泣きだしそうだった。

「何やってんの、なんで二人が一緒にいんの」
「俺が連れてきただけ。おそ松兄さんは悪くないよ」
「どっちが悪いとか悪くないとかどうでもいいよ!」

 勢いのまま僕を殴ろうとしたトド松は、腕を上げた体制のままぐっと固まって、そしてゆるゆるとその拳を下ろした。もう殴るところがないほど紫色に変化した僕の顔を見て良心が痛んだのかもしれない。いや、このドライモンスターに限ってそんなことあるわけねーか。単純にこれだけ殴られても何もしない僕に呆れているだけだろう。肉がはみ出た口端をぽりぽりとかく僕に、「なんで、離れないの」と消え入りそうな声でトド松は訊ねた。もはや立っているのもやっととでもいいそうなほど憔悴している様子に、きっとこいつもこいつで大変なのだろうと思った。当たり前だ、今までさんざんニートを謳歌していた人間が突然社会の荒波にもまれて平気なわけがない。僕たちの中で一番外の世界とかかわりがあったからといって、ニートであることに変わりはなかったのだ。ましてや夜一人でトイレに行けないほどのビビリ。そりゃあ憔悴もするわ、とこの末弟を思って少しだけ心を痛めた。おそ松兄さんのこと以外で胸を痛めるのが久しぶりすぎて、どうすればいいのか判断が鈍る。だから僕は爪が二、三枚禿げたかさかさの指をトド松の頭に載せて、乱暴にかき混ぜることしかできなかった。
 トド松は何か言いたげに僕を見上げてから、「何かあったら、連絡して」と携帯番号の書かれた紙きれをよこして去っていった。おそ松兄さんの方を振り向けば、やはりテレビから視線を外そうとしない。数年前まで二人でふざけ合って、ニート万歳と一緒になって諸手を挙げ合っていた末弟と会うのは、きっと心が痛むからだろう。だからか、その夜おそ松兄さんは僕のどてっ腹を思い切り蹴り上げて、嘔吐く僕の口にトド松の携帯番号が書かれた紙きれを放りこみ無理やり嚥下させ、そのまま僕を抱いた。何度も何度もいとおしむようにトド松の携帯番号が納まっている腹を撫でていたから、トド松は特別なんだろうなあと思ってやっぱり涙が出た。


「本当だったんだな」


 次に来たのは意外も意外、クソ松だった。いや意外でもないか。この次男と今僕のおんぼろアパートでつまらなそうに雑誌をめくっているであろう長兄は、僕たち弟では入れないような、入ってはいけないようなそんな絆で結ばれていた。十四松を蹴ったおそ松兄さんを止めて外に連れ出したのはクソ松だったし、やはりクソ松にとっても、おそ松兄さんにとっても、お互いはとても大切で、それでいてとても特別な関係だったのだろう。そしてそのことを認識して、僕の心はまただくだくと血を流すのだった。いってえ。眉をしかめる。
 二階にある自分に宛がわれた一室に行こうとしたまま停止した僕に、それを肯定ととったクソ松が僕の傷だらけの手を取って悲しそうに、つらそうに目を伏せる。それはきっと、僕の傷に心を痛めているのではなく、僕をこうするまでに至ったおそ松兄さんを思ってのことだろう。血で赤くなった手を包みながら、クソ松は「どうして、離れない」と掠れた声で僕に訊ねた。やはり六つ子と言うべきか、トド松と言うことが同じだった。
「なんでって」
 クソ松の手を払う気力もなくぶらぶらと腕を下げたまま視線をクソ松に向ける。視線がばちりとあった。誰かと目が合うのは久しぶりだ。おそ松兄さんとはセックスの時でさえ滅多なことでは目が合わないし、合ったとしても僕を見ていない。きっと僕の下にある床でも見ているのだろう。おそ松兄さんにとって、僕は透明人間なのかもしれない。
 クソ松、いや、カラ松は、言葉をそこでとぎった僕を、痛いほど抱きしめた。ぎゅうぎゅうと、それこそ傷だらけの身体が悲鳴を上げるほど、強く、強く抱きしめた。昔だったならば、僕はこの次兄の頭をかち割ってその上バズーカを放ちゴミ捨て場に放りこんでいたはずだ。でも、今はそれができない。だってもう、昔じゃないから。昔みたいな関係には、戻れないから。
 何の抵抗もせずその抱擁を受け入れる僕の肩口にカラ松の頭が乗っかる。じんわりと湿っていく感触に泣いているのかと思って、なんとなくその頭をトド松と同じように撫でてやった。そうだよな、実の弟にこんなことするまで堕ちちまった長兄を見てなんとも思わない方がおかしいもんな。ましてやこいつは、馬鹿みたいに優しいのだ。その優しさが嫌いだった。縋りつきたくなってしまうから。離れないでと泣き出してしまいそうになるから。だから、僕は昔、こいつを傷めつけていたのだ。
 でも、今は違う。だって、優しくされても縋りつきたいなどという欲望がこれっぽっちも湧いてこないのだから。離れないでなどとという気持ちも浮かんでこないのだから。だから今、僕はこうして馬鹿で優しくて空っぽなこいつの頭を撫でてやることができる。そのことが少しだけ嬉しくて、笑ってしまった。失ってから優しくできるようになるなんて。

「お前がおそ松といても、いいことなんて何もない」
「そうかな。俺にとっては、いいことづくめだけど」

 たとえ認識されなくても、同じ空間にいられる。たとえどうでもいい存在だとしても、暴行を加えてもらえる。たとえ愛されていなくても、抱いてもらえる。おそ松兄さんにとってどんな地位にも属さない僕がもらうには十分すぎるほどの扱いだ。幸せすぎてぶっ壊れてしまうくらい。
 僕の言葉を信じないカラ松が真剣な表情でいいわけがない、こんな状態で放っておけるわけがない、俺と一緒にこいとぐいぐい腕を引っ張って煩かったから、数分前ようやくこいつにも優しくできたとほほ笑む自分をぶっ殺して階段から蹴り落とした。ごろごろ転がっていく次兄を横目に鍵を開けて玄関に入れば、じっと佇む長兄がいた。どうやらこのおんぼろアパートでは外の喧騒も筒抜けらしい。そりゃそうだわな。
 おそ松兄さんは僕をぶん殴って玄関の扉に激突させてから、その場で僕を抱いた。ずりずりと擦れる背中が痛かった。でもきっとおそ松兄さんは僕より痛い。きっと自分に会わせずにカラ松を返したことに怒っているのだ。自分を心配してやってきてくれた頼れる存在を階段から蹴り落とすという荒行事で返したことに憤怒しているのだろう。証拠に、カラ松が濡らした肩を骨に到達するほどの力で噛みつかれた。実際到達したかは知らないが、それぐらいの痛みを伴うほどのものだった。思わず悲鳴が零れた。そしてやっぱり、カラ松もおそ松兄さんにとって特別な存在なのだと知って、ぼろりと血と一緒に涙が溢れた。


「一松兄さん、ご飯行こう」


 十四松は僕の職場に直々にやってきた。トド松がおそ松兄さんに会うこともかなわず、カラ松に至っては階段から蹴り落とされるという所業をなされたということを聞いてのことかもしれない。まずは僕の機嫌をとってから、おそ松兄さんに会おうという算段なのだろう。
 この十四松だって、おそ松兄さんにとっては特別な存在だった。こいつのあっけらかんとした明るさと底抜けの馬鹿さ加減はおそ松兄さんととても波長が合っていた。だからこいつと一緒にいるおそ松兄さんはとても楽しそうなもので、僕ではとうていその穴を埋められそうもなかった。そもそもそう思うことすらおこがましいというものだ。
 適当なファミレスに入って適当なものを頼んで世間話をしたが、十四松は一言もおそ松兄さんの話題を出さなかった。今自分がどうしているか、僕が何をしているかを聞いて、そして他の兄弟や昔馴染みの人間の話をして、たくさん話して、たくさん笑った。久しぶりに笑ったせいで、口端の傷がじくじくと痛んだ。確かに僕はおそ松兄さんにとってなんでもない存在で、十四松はおそ松兄さんにとって特別な存在だという事実は僕の心を痛めたけれど、そろそろ僕の痛覚も上限に達してきている。何も思わないし、何も痛くなかった。だって当然だろう、僕みたいな存在が、他の兄弟に並ぼうと思ったことがそもそも間違いだったのだ。ゴミはゴミらしく、黙っておとなしくオナホになっていればよかったのだ。特別になろうと思うその思いが間違いだったんだよ。
 煙草をふかしながら店外に出て、じゃあ、と別れようとした時、十四松が僕の手を取った。あ、そうか。楽しすぎて忘れていたけれどこいつもおそ松兄さんに会いに来たんだった。ちくりと心が痛む。上限に達したはずなのに。こいつは僕に会いに来たんじゃない。おそ松兄さんに会いに来たんだ。
 だから次にきた十四松の科白に、僕はぽかんと傷だらけの口を開けてしまった。

「一松兄さんは今、幸せ?」

 おそ松の部分を一松と間違えたのではないかという科白に眉をしかめて、真意を読み取ろうとその焦点の合わない目を見つめてから、無駄だと分かって溜息を吐いた。こいつの表情から、視線から、何か読み取れるわけがない。それを僕は一番に分かっていたはずなのに、離れていた時間はそんなことすら忘れさせてしまうものだったらしい。
 じんわりとした温さを伝える手に自分のそれを重ねながら、「幸せだよ」と言えば、十四松は少しだけ考えるように口を噤んだ後、「じゃあいいっす! 一松兄さんが幸せなら、俺はそれでいいっす!」と笑った。その目がふんだんに涙を含んでいたことも、その声がぶるぶると震えていることも、僕は知っていたけれど、その理由は分からなかった。僕ごときがおそ松兄さんと一緒にいることを幸せと思っていることを不快に思ったのだろうか。いや、きっと僕と一緒にいるおそ松兄さんの不幸を思ってのことだろう。でもごめんね十四松、僕はお前でも、どんなに可愛い弟でも、おそ松兄さんを渡せないよ。
 じゃあね、と今度こそ離した手は、やっぱり震えていた。
 そのまま帰路についた僕は危うくおそ松兄さんに蹴り殺されるところだった。せっかく金を払って食べた十四松とのご飯もげーげーと吐き出して、その上その嘔吐物の中に頭を突っ込まれるという拷問を受けた。自分の吐瀉物で窒息死するところだった。無表情だけど不機嫌だと簡単に分かるおそ松兄さんに、ああ腹が減っているんだなと思った。時計を見れば夕飯の時間はとっくに過ぎ去っている。だから僕は手早く自分の吐いたものを片付けてシャワーを浴び、チャーハンを作った。それをテーブルに出せば、おそ松兄さんは黙々とスプーンを動かしたから、ああやっぱり腹が減っていたのだと思った。その日は、セックスをしなかった。


 チョロ松兄さんは、待てども待てども一向に僕のうちに来ることも、僕とコンタクトをとってくることもしなかった。おそらくトド松から広まったであろうこの同居話に、何も思わないわけではあるまい。それでもチョロ松兄さんは僕のところに、おそ松兄さんのところに来なかった。
  だから僕は何も言わずに、何もせずに過ごしていたが、ある日突如突然変異か何かのようにキレたおそ松兄さんによってボコボコにされた。骨こそ折れなかったが内臓の位置が変わったんじゃないかと思うほど蹴られたし、殴られた。初めて吐血した。口の中が気持ち悪くて何度も何度も血の混じった唾を吐きだした。そしておそ松兄さんは慣らしもせず僕に勃起した性器を突っ込んだ。痛くて痛くて、それ以上におそ松兄さんをここまでの状態にするほどのチョロ松兄さんの存在の大きさに嫉妬して、咽び泣いた。僕がどれだけ努力しても、どれだけ尽力しても到底手に入れることはかなわないところにいるチョロ松兄さんが羨ましくて仕方がなかった。
 おそ松兄さんは僕の中で射精してから、ぱたりと電源が切れたかのように眠りについた。まあ人に暴行を加えるのもセックスするのも疲れるもんね。軋む身体を引きずっておそ松兄さんの身体を綺麗にしてから、シャワーを浴びた。水のしみる身体に、やっぱり涙が零れた。


 トド松は何度も僕のもとに訪れた。何度も何度も、傷だらけの僕を見て涙を零した。「もうやめよう」「一松兄さんが死んじゃうよ」そう言って泣く末弟に、僕はその頭を撫でることしかできなかった。おそ松兄さんの方をちらりと見るも、やっぱりその視線は僕ではなく末弟に向いている。その視線に気づいたトド松は「どうしてこんなことするの」「この人でなし」「死ねよクソ兄貴!」と僕を押しのけておそ松兄さんに詰め寄ろうとするものだから、僕はあわてて玄関の扉を閉めるのだった。トド松にそんなことを言われればおそ松兄さんはきっと傷つく。そしてきっと、そんなことを言ったトド松も傷つくのだ。もうその涙をぬぐう存在はいないというのに、きっとあの末弟は一人きりの部屋で泣いてしまう。だから僕は扉を閉めて、その可能性を少しでも減らそうと奮闘するのだ。

 カラ松は何度も押し掛けてきては僕を無理やり連れて行こうとするもんだから「次来たら自殺する」と脅したらぱたりと来なくなった。きっと優しいあいつのことだ、こんなゴミでも弟という位置にいる僕が死んだら罪悪感で苦しむのだろう。だから来なくなった。これでいい。これでいいんだよ。あんたの優しさなんていらない。縋りつきたくなるような、頼ってしまいたくなるような優しさは、いらないんだ。

 十四松はたびたび僕をご飯に誘う。それについて行っては胃の中身を全て吐かせられる僕のことに気付いているかどうかは知らない。きっと気付いていないのだろう。気付いていたら、この優しい弟は僕を食事に誘おうだなんて思わないはずだ。僕が我慢すればいい話。吐くことなんてだいぶ前に慣れてしまった。だから、これでいい。

 トド松は泣いていた。カラ松も泣きそうな顔だった。十四松も、きっと僕の知らないところでたくさん泣いているのだろう。それを思って、おそ松兄さんは一度も泣いてくれなかったな、とそんなことが頭の片隅に浮かぶのだった。僕が家を出ると言った日も、僕がぼろアパートに連れ込んだ時も、吐くほど殴られた時も、初めてセックスした時も、何も言ってくれなかったし、勿論涙も見せてくれなかった。
 でも、それでいいと思った。
 きっとおそ松兄さんが涙を見せた時がこの関係の終わりだと、僕は分かっていたからだ。











 そしてそれは唐突に、突然に、突如として訪れた。

「今日チョロ松に会った」

 数ヶ月振り、いや数年振りともとれるおそ松兄さんの声を、僕は最初認識できなかった。空耳か、とうとう幻聴でも聞こえ始めたのかと自分の脳みそを疑った。殴られすぎて、蹴られすぎてとうとうおかしくなったのかと。でも言葉を発したのはおそ松兄さんだった。他の誰でもない、おそ松兄さんだった。
 おそ松兄さんは僕に背を向けたまま煙草をふかしている。僕はその背中から視線をそらせなかった。チョロ松兄さんが、おそ松兄さんに会いに来た。そして、チョロ松兄さんに会ったおそ松兄さんは今まで一度も声をかけることも存在を認識しようともしなかった僕に言葉をかけている。それだけの変化をもたらせることのできるチョロ松兄さんに、眼球が沸騰しそうなほどの嫉妬に駆られる。ああ、ああ、やはり、おそ松兄さんを救えるのは、あの三男だけなのかと、泣き叫びたくなる。
 おそ松兄さんはボロボロで血まみれで精液まみれになった僕に向かって、「んで、チョロ松に怒鳴られた」と紫煙と共に吐き出した。
「何やってんだって。自分の弟にそんなことして恥ずかしくねーのかって」
 咳き込むと湿った声が出た。口の中が気持ち悪くて吐きだせば白い塊。歯だった。

「なあ、一松」

 やめろ、やめてくれ。僕はこんなことを聞きたかったわけじゃない。そもそもおそ松兄さんの声なんて聞きたくなかった。セックスのときのうめき声だけでよかった。だってその言葉は、僕を傷つけるから。特別でも空気でもなんでもない僕を傷つけるから。ただおそ松兄さんの傍にいたいだけなんて嘘だ。僕はおそ松兄さんの特別になりたかった。他の兄弟がいなくても僕がいるから大丈夫、とその身体を抱きしめてあげたかった。僕がいるから平気だとその頭を撫でてあげたかった。でもそんなことは無理だった。駄目だった。無駄だった。その事実を叩きつけるような言葉を、僕は聞きたくなかった。だから声なんて聞きたくなかった。やめろ、やめてくれ。僕を、僕をこれ以上、痛くさせないで、惨めにさせないでよ、おそ松兄さん。
 そんな僕の心の叫びは勿論届かない。当たり前だ、口に出しているわけではないんだから。六つ子といえど相手のことが全て分かる、そんな神秘的な能力は僕たちは誰一人持ち合わせていなかった。もしも誰か一人でもそんな力を持っていたら、きっとおそ松兄さんはここまで傷つかなかったはずだ。ここまで、ぼろぼろにならなかったはずだ。
 おそ松兄さんが振り向く。そしてしっかりと、僕の目をその双眸で捉えた。じじ、と指にはさまれた煙草が灰になる音がする。短くなった煙草を灰皿で潰して、おそ松兄さんが僕の前に屈みこんだ。血と汗と唾液と精液でまみれた僕の頭をそっと撫でて、くしゃりとその顔が笑う。


「俺たち、もう終わりにしよっか」


 ああ。ああ。ああ。やっぱり僕ではおそ松兄さんの特別になれなかった。傍にいて大丈夫だよとその身体を支えることも、僕がいるから平気だよとその心を補うこともできなかった。それができたのはきっと、チョロ松兄さんだけだったのだ。あの人がいれば、きっとおそ松兄さんはここまで壊れなかった。実の弟に暴力を振るうことも、血のつながった人間と性交をすることもなかった。チョロ松兄さんさえいれば、この人はきっとここまで壊れなかったはずだ。
 でも残ったのは僕だった。おそ松兄さんの近くにいることとなったのは僕だった。半ば強引にその地位をぶんどっただけの僕では、到底チョロ松兄さんの代役など務まらない。できたことといえばおそ松兄さんのサンドバッグとオナホになる程度のことだった。おそ松兄さんを支えることができたのは、チョロ松兄さんだけだった。だというのに、僕が欲しくて欲しくて仕方がなかった地位をあの三男はあっさりと捨て、そして何事もなかったかのように、僕では届くことさえかなわなかったおそ松兄さんの心を揺れ動かした。ああ憎らしい、ああ恨めしい。ああ妬ましい。ああ羨ましい。ああ悔しい。

 ああ、かなしい。

 ごめんな、とおそ松兄さんが言った気がした。もしかしたら僕の幻聴だったのかもしれない。その言葉と一緒にたった一粒だけ、おそ松兄さんの綺麗な瞳からぽろりと涙が零れた。温かな腕が僕の身体を包み込む。ひくりひくりと咽び泣くおそ松兄さんの背中に手を回して、僕も泣いた。何の涙だったのか、自分でも分からなかった。二人の目から涙が零れ落ちる。僕たちはお互いを抱きしめて、泣いた。声を押し殺して、ただお互いの存在を抱きしめて、泣いた。


 それが、僕たちの終焉だった。









×