おそ松兄さんがとんでもないクズで人間の底辺であることは分かり切っていたことだけれど、きっと僕はそれを甘く見ていたんだと思う。おそ松兄さんは確かにクズで人間の最底辺に位置する人だけれど、僕のことだけは大事にしてくれてるって思ってた。まあ思ってただけなんですけどね、はい。実際こうやって捨てられたわけですし。「結婚するんだ」そんな簡単で短い科白で、僕は切り捨てられてしまった。ジッパー式のお菓子で、この点線から上はゴミですってやつ。それを捨てるような感覚で、僕は捨てられた。いや、もしかしたらおそ松兄さんには捨てるだなんてそんな感覚もなかったのかもしれない。おそ松兄さんにとって僕はただのオナホだったのかも。それかセフレ。それをトド松に零したら思い切り顔をしかめて「気付くの遅すぎ」と吐き捨てられた。うん、遅すぎた。そしてこんなところでする話じゃなかった。目の前でおそ松兄さんが見たこともない女の人と幸せそうに笑っている。なんとかっていう会社の社長の娘さんで、要するにおそ松兄さんは逆玉の輿をしたってわけ。そりゃ一生ニート生活を許される条件を前にしたら誰だって笑顔で頷きますよね。それが普通だ。今までの方がおかしかった。大してうまくもないカクテルを飲み干す。隣では呆れたように僕を見るトド松がいる。他のみんなは違うテーブル。じゃなきゃきっと今頃僕の様子がおかしいことに気付かれていた。いや、もう気付かれてるのかも。気付いてて、みんな気付かない振りを、見ない振りをしてくれているのかもしれない。その気遣いが嬉しくて、同時にとてつもなく悲しい。僕はみんなに公の場で慰められる資格もないんだ。だっておそ松兄さんと僕は兄弟だから。同じ卵からなった、おんなじ顔の六つ子だから。だからしょうがない。何がしょうがないんだよ。ぴしり。握っていたカクテルグラスにヒビが入る。「こういうのは僕じゃなくて、カラ松兄さんとかチョロ松兄さんとかのほうが適任なんだろうけどさあ」ヒビから零れ落ちるカクテルを眺めながら、トド松は眉を潜めてこう言った。「早く忘れなよ」うん、早く忘れたい。でもそれをそうさせてくれないのが、松野家長男松野おそ松なんだよね。ほんと名前の通りお粗末な頭を持ってるんだよあの人は。おそ松兄さんは結婚してから一週間もしないうちに僕のところにやってきた。そしていつものように僕をラブホに連れてってそのままセックス。ゴムはしてくれなかった。「まだ子供はいらないって、ゴムなしじゃやらせてくれないのよ彼女」にたにたと笑いながら、僕の穴を広げて精液まみれの中を誰かに見せつけるように、おそ松兄さんは言った。ああ、まだ新婚生活を楽しみたいってわけね。まああの子女の子女の子してた可愛らしい子だったし、そういう思考回路も分からないわけじゃない。掻き出されるわけもなく僕の胎に収まったままの精液のぬくさを感じながら、彼女の思考をほんの少しばかり真似てみる。みんなにおめでとうおめでとうと祝福され永遠の愛を誓う僕とおそ松兄さん。想像しようとしたけど僕の脳みそでは無理だったみたいで、どう頑張ってもおそ松兄さんの隣にいるのはあの子だった。悲しい。でも涙は出なかった。出たところでどうにもならないし、面倒くさがられるから、別にいいんだけど。おそ松兄さんは僕を放置して自分だけシャワーを浴びて煙草を吸っていた。窓開いてるし。壊したのか。「開け方があるんだって」「それ、壊してるだけじゃない」もらい煙草をした赤マルは僕の喉を焼いて、少しだけ痛かった。おそ松兄さんは隣で煙草を吸う僕の耳をいたずらにいじくっている。そこには一つ、ピアスホールが開いている。おそ松兄さんが高校生の時、気まぐれで僕に開けたものだった。ニードルとかピアッサーとかじゃなくて、ライターで熱殺菌しただけの切れ味の悪い安全ピンで。「一松は、俺たちの中で一番耳たぶが厚いね」だから幸せになれるよと高校生のおそ松兄さんは笑った。血まみれの耳をぶら下げながら、僕たちはその時初めてセックスをした。今まで擦り合いっこやフェラはしていたけれど、僕の穴を使ってちゃんとしたセックスをしたのはあの時が初めてだった。安全ピンをくっつけたまま、僕はおそ松兄さんに揺さぶられた。耳も熱かったけれど、それをはるかに凌駕する下半身の熱さに僕ははあはあぜえぜえと盛りの付いた犬みたいに喘いだ。おそ松兄さんはその時もゴムをしなかった。おそ松兄さんがゴムをしてくれる時なんて、光るゴムだとか、猫が印刷された可愛らしいものだとか、そういった面白いゴムを見つけた時だけだった。最終的には生で突っ込まれるから、僕としてはどうでもいい。でもさすがに猫のゴムをしているときはあまりの滑稽さと罪悪感で死にたくなった。

 おそ松兄さんは結婚して家を出たあとも頻繁に僕のもとに訪れてセックスをして帰った。「なに、セックスレスなの」「いや、昨日も彼女とやったけど」じゃあくんなよ。てかどんだけ性欲強いんだ。ぽっかり開いたピアスホールを弄り回しながら、おそ松兄さんは僕の中で射精した。ホテルに行く金がなくて路地裏でやったから、揺さぶられるたびに揺れる空があんまりにも青くて恐ろしかった。忘れなよ。トド松の言葉が脳みそで木霊する。うん、僕も忘れたい。こんなドクズでド底辺で結婚しても実の弟の肛門に勃起したちんこ突っ込む兄貴のことなんて忘れたい。だというのにおそ松兄さんはそれを許してくれない。いつだって僕の前に現れて、何事もなかったように僕とセックスしてあの女の人のところに帰って行く。てか指輪くらい外せよ。それが精液でぬれるたび、僕はどうしようもないほどの罪悪感と居心地の悪さを胸に抱いた。そんな僕をほっぽって、おそ松兄さんはいつものように自分だけティッシュで身を簡単に清めて煙草を吸う。ティッシュだって寄こしてくれやしない。だから僕は自分のポケットからハンカチを取り出して自分の性器を拭いて、そして出された精液を掻き出す。情緒も何もあったもんじゃない。そんなもの、僕たちの間にあったことなんて一度もなかった。キスだってしたことない。だって僕たちは恋人でもなければリップサービス旺盛のセフレでもないんだから。きっとデリヘルの子たちの方がおそ松兄さんからの愛を受け取っているんだろうなあと思って、自分で考えたことながらかなり凹んだ。おそ松兄さんは僕を待つことなく、煙草を吸い終わるとその吸い柄を放り捨てて帰って行った。僕とセックスした後でも、あの人は何事もなかったような顔であの女の人のところに帰る。そんなの見ていなくても分かることだった。おそ松兄さんはそういう人間だった。知ってる。知り過ぎるほどに知っている。知りたくなかったような、知っていて良かったような。どっちつかずの思考はぶらぶらと視界を揺らめいて、そのうちばちんと音を立てていなくなった。まあ、それでいいんだと思う。僕たちの間に何かがあったことなんて一度もなかった。あったらおそ松兄さんは結婚していなかったと思う。

 劣悪な環境でことを行ったせいで痛む身体を引きずって家に帰れば、不機嫌をこれでもかというほど体現したトド松と遭遇した。「馬鹿じゃないの」帰宅した兄に向って放つ第一声がそれかよ。トド松は精液のにおいをさせる僕に思い切り顔をしかめて「馬鹿じゃないの」ともう一度言った。馬鹿じゃないの。知ってるよ。僕はとんでもない馬鹿だ。きっとおそ松兄さんは僕がやめてと言えばもう二度とセックスをしようだなんて言ってこない。セックスをする前の、普通の兄弟に戻るのだろう。そんなはるか昔の関係は僕は忘れてしまったけれど、きっとおそ松兄さんはちゃんと覚えていてそれを実行できる。弟で脱童貞しただなんて微塵も感じさせない顔で、僕の肩を抱くのだ。まるで普通の兄弟のように。普通の、家族みたいに。トド松は怒っているようだった。僕に怒っているのか、おそ松兄さんに怒ってるのか、よく分からない。両方にかな。ぼんやりそんなことを思った。馬鹿だよ。僕はどうしようもない馬鹿だ。おそ松兄さんのオナホになれることに悦びを覚えるとんでもねー救いようのない人間。でもどうしようもないじゃん。ここまで来たら。トド松の横をすり抜けて風呂場に行く。服を脱げば、まるで喧嘩をしたあとのような痣や噛み痕がいくつもあった。おそ松兄さんは僕を抱くときいつだって乱暴にする。きっとまだオナホの方が扱いがいいんだろうなあと思った。僕は無機質にすら勝てないらしい。笑えねー。身体を清めて濡れた髪を拭きながら居間に行くと、トド松とばっちり目が合った。「悲劇のヒロインのつもり?」いやまさか。そんなもの、僕がなれるわけもない。居間にあった煙草を一本拝借して火をつける。吸いこんだ途端に口いっぱいに広がるメンソールに顔をしかめる。マルメンか。当たり前だ、この家で煙草を常備しているのはおそ松兄さんとチョロ松兄さんと僕だけだった。だからおそ松兄さんが欠けた今、この家にあるものは僕かチョロ松兄さんのものだ。父さんは僕たちが煙草を吸い始めるのと入れ替わりで煙草をやめた。なんでやねん。健康診断にでも引っ掛かったのかな。窓際で煙草を吸う僕に、トド松は心底侮蔑したような視線を送る。うん、まあそういう顔になるよね。僕だって多分他の誰かが兄弟同士でセックスしてたらそんな顔したんだと思う。ありえねーって。気持ち悪いって。そう言えたらよかったのに。「僕は、誰のものなんだろうね」誰にともなく言ったつもりだったけど、末弟はご丁寧に解答してくださった。「一松兄さんは、一松兄さんのものだよ」そうかな。まあそうなんだろうな。少なくともおそ松兄さんのものではなかった。紫煙を吐き出す。喉をひりひりさせるメンソールはあんまり好かない。でもかの有名な芸能人はメンソールなんてゲイが吸うもんだって言ってたな。じゃあチョロ松兄さんじゃなくて僕こそがマルメンを吸うべきなのに、僕が愛煙しているのは外国物のわけのわからない煙草だった。世の中うまくいかないもんだね。僕が僕のものであるなら、おそ松兄さんもおそ松兄さんのものでしかなりえないんだろう。人間みんなそうなのかな。そうなんだろうな。でも少女漫画とかドラマとかではみんな他人のものになっているのに、なんで現実はこうなんだろう。ぐしゃり、と煙草を握りつぶす。火種が肌にあたって痛いし熱い。でも僕の方が痛いし熱い。どこが痛いのか、どこが熱いのかは僕にも分からなかった。おそ松兄さんとのセックスは僕の夢なのかもしれない。僕のまぼろしだったのかもしれない。おそ松兄さんが結婚してから何度も考えたことだ。あれは僕の空想で、全てフィクションで現実の人物・団体とは全く関係がないのかもしれないって。でもそれは違った。自分の精液を自分の胎に収めるなんて芸当は僕にはできない。だから精液を掻き出すたび、やっぱりこれは現実なんだなと思うのだ。現実は小説より奇なりってやつ。ほんとそれ。ほんと、フィクションだったらどれだけよかったか。これがフィクションだったら僕はどんな役だったんだろう。悲劇のヒロイン、ではないんだろうな。きっと端役だ。噛ませ犬にもなれない、そんな存在。お似合い過ぎてちょっと笑った。「一松兄さんはさ、おそ松兄さんに何を望んでんの」僕だってわかんねーよ。分かってたらこんな風になってない。まだ残る紫煙が漂う部屋で、トド松が僕に問う。「いつまで、そうやってるつもりなの」しらねーよ。


 でも案外あっさり、その終焉は訪れた。「子供できたんだ」おそ松兄さんは僕の首筋に噛みつきながらそんな爆弾を僕に放り投げた。それは綺麗に放物線を描き、無事僕を爆殺することに成功した。ひくり、と喉が痛みからではないもので引きつる。おそ松兄さんは噛み痕に舌を這わせながら、ゆっくりと僕を見下ろした。おそ松兄さんの頭の上で趣味の悪いシャンデリアがきらきらと輝いている。悪趣味をこれでもかというほど詰め込んだ部屋だ。だから安かったんだろうな。僕だって女の子とこんなところに来たいだなんて全く思わない。安さに目がくらんだとしてもだ。おそ松兄さんも同様だろう。僕だから、僕みたいなクズとセックスするからこんな最安値の部屋を選んだ。賢明な判断である。「双子だって。やっぱ俺の子供だね」DNAってこえー、とおそ松兄さんはけらけら笑った。僕は笑えなかった。おそ松兄さんの、子供。男の子かな、女の子かな。名前はなんて付けるの? っていうかいつからゴムなしでやってたの? でもそろそろ結婚して三年経つもんね、そりゃ相手も子供を欲しがる頃合いか。ならよかったね、ちゃんとできて。不妊治療って高いって聞くし。「だから、お前とこうするのももうおしまい」太ももに噛みつきながら、おそ松兄さんはそう言った。そう言って、今度こそ僕をちゃんと捨てた。ちゃんとゴミ袋で包装してゴミ収集車に突き出した。おそ松兄さんは笑ってた。僕は笑ってなかった。おそ松兄さんのびいだまのような両目に、ゆらゆらと僕が映り込んでいる。真っ青で、それでいて何を考えているか全く分からない顔。我ながら滑稽すぎて冷笑すら零れ落ちなかった。おそ松兄さんは僕の顔に左手を添えて、輪郭をなぞるように掌を滑らせた。「だから、これでおしまいだよ、一松」おわり。終わり。そうか、これで終わりか。でもどうせおそ松兄さんは僕の代わりをすぐ見つけるんでしょ。こんな獣じみたセックス、奥さんとはできないもんね。子供の人数も考えたらゴムなしのセックスも暫くはなしになるのかもしれない。どうせ違う僕を見つけて、いや、もしかしたらすぐにまた僕のところに戻ってきて、何事もなかったかのように噛み痕を幾つも残して僕の胎に精液を吐き出すのかもしれない。未来のことは分からない。今のことも、よく分からない。「いちまつ、」おそ松兄さんが僕の唇に自分のそれを重ねた。十年以上セックスしていて、初めてのキスだった。初めてのキスはレモンの味って聞いてたのに、僕のファーストキスは自分の精液の味だった。まっず。「いちまつ」おそ松兄さんはそう言って、また僕にキスをした。左の薬指にある結婚指輪がきらきらと輝いていて煩かった。


 その後、おそ松兄さんが僕にセックスをしようと持ちかけることは二度となかった。僕は誰に抱かれることも誰を抱くこともないまま三十路に突入してしまった。おお、これが魔法使い。窓際で煙草を吸いながらそんなことを考える。一階はきゃらきゃらとした子供の声で溢れかえっていた。おそ松兄さんの子供の声だ。すくすく育って、今では一丁前に僕を一松叔父さんだとか言ってくる。実際その通りなんだけど、こういうデリケートな年頃の時にそうやっておじさん呼ばわりしないで欲しい。かと言ってなんて呼んで欲しいのかと言われたら、僕は黙り込んでしまうわけだけれど。トド松はあれ以来何も言わない。僕も何も言わない。おそ松兄さんも何も言わない。だから僕たちの関係は、あのときすっぱりと終わってしまったのだ。終焉を、迎えてしまった。じじ、と煙草の断末魔が耳に響く。短くなっていく煙草を見ながら、あの時、高校生のときでも、押入れでセックスしたときでも、ラブホでセックスしたときでも、路地裏でセックスしたときにでも、僕は訊けばよかったんだろうか。おそ松兄さんにとって、僕はなんだったのって。勿論そんなこと、訊けるわけもなかったのだけれど。「一松」おそ松兄さんが僕を呼ぶ。電気を付けていない暗い部屋で、僕を呼ぶ。「寿司、届いたってさ」「……うん、すぐ行く」煙草を灰皿で押し潰し、立ち上がる。


 今日はおそ松兄さんたちの何回か目の結婚記念日だ。おそ松兄さんの子供たちは今度の四月で小学生になるらしい。そして僕は何者にもなれないまま、三十路を迎えることとなる。笑えないよね、ほんと。(でもこれが僕の現実だ)



BGM:助演女優症2by back number
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